【べらぼう】尾美としのり「朋誠堂喜三二」、岡山天音「恋川春町」、桐谷健太「大田南畝」強烈な3人の文化人の意外な共通点

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武士が文化活動に従事しやすい時代

 朋誠堂喜三二と恋川春町、大田南畝。『べらぼう』でこの3人は、いずれも腰に大小の刀を差している。3人とも武士なのである。

 18世紀後半から江戸で盛んになった通俗小説、すなわち蔦重が出版に力を入れた草双紙(大人向けの絵入り物語で青本なども含まれる)や洒落本(遊里での遊びの様子を描いた本)をはじめとする戯作は、その作者の多くが武士だった。

 教養のある人物が武士階級に多かったこと、武士の給料はコメだったので、商品経済の発展にともなって生活苦の武士が増え、副収入はありがたかった、といったことは理由として挙げられる。加えて、田沼意次が老中を務めた安永元年(1772)から天明7年(1787)の自由な空気を無視できない。商人たちに自由な活動を促した経済優先の政治のもと、文化への統制は影を潜め、文化的には江戸時代をとおしてもっとも自由な時代だった。だから、武士も文化的な活動に従事しやすかったのである。

 朋誠堂喜三二(1735~1813)の本名は平沢常富。江戸の武士の三男坊で、母方の縁戚である秋田久保田藩士の養子になった。本職は秋田藩の江戸留守居役筆頭で、幕府と他藩との交渉を行う外交官のような立場だった。当時、吉原は事実上の社交サロンでもあったので、各藩の江戸留守居役は出入りすることが多かったが、喜三二は「宝暦の色男」と自称していたくらいで、仕事を超えて積極的に吉原に通ったようだ。

 安永年間(1772~81)に、朋誠堂喜三二の名で戯作を手がけるようになった。ちなみに、この戯作名は「武士は食わねど高楊枝」を意味する「干せど気散じ」をもじっている。

子供でも知るくらいの大評判

 恋川春町(1744~89)は駿河国(静岡県東部)の小藩、小島藩に仕える武士で、本名は倉橋格といった。藩の用人として江戸に勤務しながら、絵師の鳥山石燕に弟子入りして絵を習得。安永4年(1775)、物語も挿絵も担当した『金々先生栄花夢』で、黄表紙(滑稽や風刺を織り交ぜた大人向けの絵入り小説)というジャンルを切り開いた。

 以後、30編前後の黄表紙を手がけたほか、洒落本や挿絵などで幅広く活躍した。恋川春町という名は、小島藩の江戸藩邸があった「小石川春日町」をもじったものだ。

 大田南畝(1749~1823)も洒落本のほか黄表紙なども手がけたが、この人物はそれ以上に、四方赤良の狂名による狂歌で名を成した。15歳ぐらいで、江戸六歌仙の一人の内山賀邸に弟子入りして和歌を学び、その後、狂歌会に参加したり、みずから主催したりすることを繰り返した。南畝のもとには武士から町人まで、江戸の狂歌界の中心人物が集まるようになり、「天明狂歌」と呼ばれる江戸における狂歌の大ブームの立役者になった。

 四方赤良は、唐衣橘洲(本名は小島源之助)、朱楽菅江(本名は山崎景基)とともに「天明狂歌三大家」と呼ばれた。なかでも赤良は「高き名の/ひびきは四方に/わき出て/赤良赤良と/子供まで知る」と、狂歌に詠まれたほど。『べらぼう』の第20回で紹介された「うなぎに寄する恋」の歌でもわかるように、赤良の狂歌は見事で、子供でも知っているくらい大きな評判だったのである。

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