芸能界引退から6年…元めざましキャスター「高樹千佳子さん」が語る“宅建から始まったセカンドキャリア”
『めざましテレビ』(フジテレビ)のお天気コーナーで、キャスターを2002年から2005年まで務めていたのが“チカちゃん”の愛称で親しまれていた多田(高樹)千佳子さん(45)だった。6年前に芸能界を引退し、NECグループのヘルスケア事業会社「フォーネスライフ」で会社員として働く彼女が、現役女子大生からキャスターへと歩んだ華々しい日々、そして育児と並行して送る今の仕事を語ってくれた。(前後編の前編)
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【写真9枚】「伊藤さんがMCをされているな…」「軽部さんも…」今も“めざまし”は観ているという多田(高樹)千佳子さん
長崎県出身の多田さんが芸能界に入ったのは、横浜国立大学工学部建設学科の4年生の時だった。今でこそ理系を志望する女子は増えたが、当時としては珍しい進路だったかもしれない。中学・高校は白百合学園で過ごした。子どもの頃から勉強はできたのだろうか。
「勉強が得意だったわけでもなく、親の薦めで中学受験をしました。小学4年から塾に通い始めたのですが、通わされている感覚でしたね。まだ中学受験をする家庭が少なく、1クラスに3人くらいしかいなかった。母が間違えた問題を抜き出したプリントを作ってくれたりしました。そういうサポートがあって、なんとか乗り越えた記憶があります。理系に進学しようと思ったのが中3の時でした。とにかく暗記が苦手で、読解力がなかったこともあって、数学の方が好きでした。理数系は公式さえ覚えれば点数が取れるので、向いていました」
高校では部活に入らず、大学時代もサークルには入らなかった。そんな多田さんが芸能界に進むことになったきっかけは……。
「篠山紀信さんが女子大生を撮影する『週刊文春』のシリーズ企画があり、母が『応募してみれば』と言ってくれた。学生時代の思い出作りみたいな気軽な思いで、川原で撮った写真を送りました。すると、その応募が通り、紀信さんに撮影頂いた写真が文春に掲載され、のちに所属事務所となるセント・フォースから声をかけて頂けたんです。並行してアナウンススクールにも通っていました。大学の授業で、製図や模型を前にプレゼンテーションを行うことがあり、人前で自分の言葉で伝えるのが楽しいと感じていたんです」
高島彩、中野美奈子の2人のアナとユニットも
2002年、事務所に所属し初めて決まった仕事が「めざましテレビ」のお天気キャスターだった。きらびやかなテレビの世界に飛び込むことは、多田さんにとって大きな決断だったに違いない。
「子どものころの大人しかった性格を考えると、よく決心したなと思います。キャスターとしての初日は、本当に何がなんだかわからないうちに終えた記憶があります。徐々に間違えても良いから気持ちを込めることや、自分の感想や考えも交えて伝えることを覚えていった。キャスターは原稿を読むだけではないということは、経験を重ねる中で学びました」
番組は、毎朝5時25分スタート。当時はどのような生活をしていたのだろうか。
「フジテレビには朝4時に入らなければならないので、午前3時に起きていました。前日の22時には寝るようにしていたのですが、23時や0時を過ぎても眠れない日もあって……。3、4時間だけ寝てスタジオに行くこともありました。放送が終わった後になるべく仮眠を取るようにしていたのですが、ロケがある時はそれもできない時がありました。当時『T.N.T.のちょっとそこまで』というコーナーを、高島彩さん、中野美奈子さんとのユニットでやらせて頂いた関係で、オンエアが終わった後も日中ロケに出ていたんです。とはいえ、私はフリーアナウンサーの立場だったので、拘束時間はそこまで長くなく、まだ楽な方でした。局アナだった高島さん中野さんは、時には前日遅くまでバラエティ番組の生放送に出演し、仮眠をとってから、めざましテレビの生放送。その後も日中のロケがあるなど、拘束時間が長い日もあり、大変そうだなと思いながらお2人の激務ぶりを見ていました。今はコロナ禍を経て、テレビ局のスタッフや出演者の働き方も当時よりは緩やかになったと聞きますが……」
とはいえ多田さんも、2003年に大学を卒業するまでの1年間は、学生生活と「めざまし」を掛け持ちするハードな生活を送っていた。「当時はとにかく一生懸命やるのが当たり前だった」と言う。
「大学4年の4月からめざましテレビの仕事が始まったのですが、卒業論文を書く時期と重なっていました。番組を朝8時に終え、お台場から大学のある横浜まで移動する生活です。キャスターになった最初の1年間は、事務所の方も他の仕事をセーブしてくださり、両立しやすいような環境を整えてくれました」
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