「将来は郵便配達夫になると決めつけていて…」 横尾忠則は“絵で身を立てよう”とは思っていなかった 「奇跡的にグラフィックデザイナーに」

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 最近、あまり聞かない言葉だが、今朝、新聞のお悔やみ欄を見ていて、聞いたことのない名前の画家の経歴に「独学」とあった。現代ではほとんど死語になっている言葉のように思えて、しばし、ボーッとして遠くを眺めている自分に気づきました。

 この独学という言葉は、僕にはなんとなく懐かしい言葉として、どこか親しみを感じていたように思います。随分長い間、耳にしなかった言葉のように思えたからですかね。僕なんかの時代、というと古い人間のように聞こえてしまいそうですが、独学という言葉は昭和11年生まれの僕にはそう珍しい言葉ではなく、むしろ当り前の言葉として流布していたように思うのだけれど。

 その頃、というか、僕がまだ十代になる前の若い頃、僕は漫画家に憧れていました。当時の漫画家の多くは独学で職業漫画家になった人が多かったように思うのですが、僕の勘違いかな?

 その一方で、僕はなぜか「独学」という経歴のつかないような職業にも憧れているところがあったように思うのです。そんな感情が僕のどこから湧いて来たのか知らないけれど、例えば作家の吉川英治とか、企業家の松下幸之助とか、国民的有名人はなぜか学歴がない人が多かったという固定観念が僕の中にあり、僕の憧れの対象ではなかったように思われます。

 僕は高校時代は絵を描くのが好きだったけれど、これで将来身を立てようなんて発想は全くありませんでした。このエッセイ(「週刊新潮」に連載中の「曖昧礼讃ときどきドンマイ」)の中でも何度も語って来たように、将来は郵便配達夫になると決めつけていました。そして日曜画家として趣味で絵を描けばいいと。だから学校に行くとか先生について絵を学ぶなんて発想はありませんでした。

 現代の高校生のことはよく知りませんが、高卒で就職する者もいるでしょう。しかし大半は大学までが義務教育のように考えていると思われるのは、僕の時代と比較すると経済生活が豊かになったせいかもしれません。そのまま大学に行くのが当然のようになっているので、「独学」なんて言葉は今では死語になっているんじゃないでしょうかね。

 で、そんな時代の流れの中で僕は憧れの職業だった郵便配達夫にもならないで、気がついたら新しい時代の花形職業のグラフィックデザイナーになっていたというわけです。

 当時、この聞きなれない職業についている人の大半は、美術大学か、専門学校を出た人が多く、というかグラフィックデザインはそのような専門教育を受けていない素人が見よう見真似ではできない職業だったのです。

 あの時代、というと60年ほど前ですが、やがて時代の最先端で社会をリードする花形職業が、僕の全く知らない次元で時代の底で台頭しつつあったのです。そんなことなど全く知らない時に、僕は神戸新聞社から、本当に奇跡的にというか、この言葉以外には説明のしようがないほど奇跡的に、デザイナーとしてスカウトされてしまったのです。この辺のことはすでに、この連載エッセイで書きました。

 このグラフィックデザイナーという職業は、免許証がないと車の運転ができないのと同じで、ど素人じゃほぼ無理な職業です。ところが僕はど素人も同然、グラフィックデザイナーという職業名さえ知らない内にこの職業についてしまったわけです。グラフィックデザインは、昔は商業図案と呼んでいた職業です。

 僕は運命的に、そんな時代の先端のグラフィックデザイナーにさせられてしまったのです。美術大学などで専門教育も受けないまま、無理矢理に半強制的に。だから僕は独学の徒ということになるんですかね。

 しかし「独学」という言葉で自分を認識したことは一度もなかったのです。学歴もない存在なので、僕はもぐりのグラフィックデザイナーだったのです。自分でもちょっと笑っちゃいますがこれでええのか?とね。ということになると僕はバリバリの独学者だったのですが、自分のことを独学だなんてこんな古くさい言葉で規定したことはなかったですね。

 でも、今朝、ある画家の経歴に独学とあったことで、ふと独学について書いてみたのですが、やっぱり、僕も昔の古い人間がたどってきたのと同じ道を歩いてきた独学の人間だったんですかね。昔の独学の人は、独学でそれなりに苦労したことを自慢していたようにも思いますね。それともコンプレックスの開き直りだったんですかね。

 しかし、今ではなんとなく懐かしいノスタルジックな言葉でもあるように思います。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年5月22日号掲載

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