ビル・ロビンソンvsアントニオ猪木「伝説の一戦」の知られざる裏側 「イノキの後ろにゴッチがいたから負けたくなかった」(小林信也)

  • ブックマーク

 欧州王者ビル・ロビンソンの登場は鮮烈だった。それまでの外国人レスラーはみな悪役で、狡猾な反則で試合をぶち壊す、見ていて怒りが募る対象だった。ところがロビンソンは違った。

 1968年4月、国際プロレスのリングに現れた彼はスマートな身のこなしで見事な技を連発し、日本人レスラーを翻弄した。最初の相手は豊登。そしてサンダー杉山、グレート草津、ラッシャー木村ら、対戦相手はまるで魔法にかかったように投げられ、固められ、意のままに操られた。

(これこそが本物のプロレスリングだ!)

 子ども心に感銘を受けた。

 そして最後はダブルアーム・スープレックスでフォールに持ち込む。その反り投げを日本のメディアは“人間風車”と名付けた。小学6年だった私も、積もる雪の上に何度、級友を人間風車で投げたことだろう。

 気が付くとロビンソンは日本勢の敵役でなく、善玉のヒーローになっていた。

 7年後、ロビンソンはいまもプロレス・ファンが熱く語り継ぐ伝説の一戦を演じた。新日本プロレスのリングに上がり、アントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦したのだ。この一戦について『人間風車 ビル・ロビンソン自伝』(エンターブレイン)で書いている。

〈数日前からイノキの「ロビンソンに勝ちたい! 負けたくない!!」という気迫は十二分に私へ伝わってきていた。しかし、私だって同じ気持ちだ。いや、それ以上に私にとっては負けたくない事情があった。

 それは……、イノキの後ろにゴッチがいたからだ〉

 日本で“プロレスの神様”と崇拝されていたカール・ゴッチは、猪木の師匠でもあった。鉄人ルー・テーズと共にこの試合の立会人を務めている。実はロビンソンとゴッチには日本であまり知られていない、浅からぬ因縁があったのだ。

 猪木との一戦をさらに次のように描写している。

〈ゴングが鳴った……。やはりイノキはゴッチが言うように、それ以前に闘ったジャパンのレスラーとはまったく違っていた。(中略)私も久しぶりに燃えた〉

次ページ:名勝負1位

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。