「ばあちゃん、腹減った!」「気のせいや!」 島田洋七が「がばいばあちゃん」の言葉で気づかされた“悩みや悲しみを笑い飛ばす”極意
コラムニストの峯田淳さんが綴る「人生を変えた『あの人』のひと言」。日刊ゲンダイ編集委員として数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけている峯田さんが俳優、歌手、タレント、芸人……第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返ります。第16回はB&Bで漫才ブームを牽引し、ベストセラー『佐賀のがばいばあちゃん』で知られる島田洋七さん(75)です。
【写真】「言っている事の8割はウソで、2割は作り話」と後輩の島田紳助に言われた天才漫才師にして、大ベストセラー作家
ばあちゃん子
人は普段、悲しさや悔しさ、やるせなさを胸に抱えているが、それが何かのきっかけで堰を切ったようにあふれ出す時がある。漫才師の島田洋七を取材した時がそうだったのではないかと思っている。
インタビュー中に声を詰まらせ、涙ぐんだ人の記憶は2、3人しかいない。その1人が洋七だった。
10年前から「おふくろメシ」という連載がスタートし、今も不定期で続けている。スタッフにも担当してもらい、100回を超えた時点で編著『おふくろメシ 80のごはんの物語』として本にまとめた。この当時、洋七にも「是非に」とお願いした。
洋七には『佐賀のがばいばあちゃん』という大ベストセラーがある。元々は38年前に自費出版され、20年ほど前に徳間書店から再出版された。現在ではアジア7カ国で発売され、シリーズ累計で1300万部を突破したという、驚愕の著書だ。
同書で取り上げているのは、ばあちゃんの話だから、「おふくろメシ」としてはどうかという議論になったが、いわゆる「おふくろメシ」のことだから、ばあちゃんの作ってくれたメシでもかまわないのではないか、となった。
連載を始めてわかったのだが、母親は仕事で留守がち、または料理が苦手で、祖母にごはんを作ってもらっていたという“ばあちゃん子”は意外に多いということ。洋七はいわずもがなだ。
洋七は広島出身。母親は7人きょうだいの長女。夫が早くに亡くなっている。芸事に長けた人で、広島の料理屋では仲居をやっていたが、洋七は中学を卒業するまでの8年間、佐賀の祖母の家に預けられることになった。その時の話が抱腹絶倒で、著書になったというわけだ。
「まぜごはんが一番おいしい」
それでも、母親が作ってくれたごはんの記憶も、わずかだがあった。
夏休みと冬休みに広島に帰った時に食べさせてくれたものだ。コリコリした山口の白銀というかまぼこ、昼に仕事から抜け出してきて作ってくれたアジフライ、お金がなくてキャベツとモヤシだけで最後に卵を落としてひっくり返すお好み焼き……。
一方、佐賀のがばいばあちゃんが作ってくれたのは、薄揚げを半分に切った中にネギをいっぱい、さらに牛スジを小さく切って入れ、楊枝で留めておでんにしたネギ袋。それから、いわゆるちらし寿司のようなバラ寿司と、まぜごはん。やはり、がばいばあちゃんの方がおふくろメシっぽい。
洋七にとって、とくに記憶が鮮明なのはまぜごはんだ。鶏肉、ゴボウ、レンコンなどを醤油で炊いて、あまり濃くない味つけにし、ごはんにまぜたものだったという。
家では15羽くらいの鶏を飼っていて、学校から帰るとばあちゃんが鶏を潰していた。「何百個も卵を産んだ後ばい、今日の鶏はうまかろう」と言って、その鶏が材料になった。
母親は2年に一回くらい佐賀に帰ってきた。その時にばあちゃんが作るのがまぜごはんだった。「まぜごはんが一番おいしい」と母親も喜んでいたそうで、洋七も6、7杯はお替わりした――。
そんな話をしているうちに、速射砲のようにしゃべる洋七が一瞬、黙ってしまった。胸に迫る何かがあったのだと思う。目にかすかに光るものがあった。ちょっと驚いた。こちらもばあちゃん子だったので、すぐに何かを感じ取ることができた。
ばあちゃんとの思い出を書いた『佐賀のがばいばあちゃん』だが、決して忘れてはいない母親の存在と思い出……同書には面白いエピソードが満載の一方、洋七のそんな切なさがどこかに潜んでいる。「もう一度笑いで天下取ったるで」という連載でもお世話になったが、そこでこんなエピソードを聞いた。
「明るいばあちゃんでね。学校から帰って、『ばあちゃん、腹へった!』と言うと、『気のせいや!』言うんです」
このエピソードは著書『お笑い がばい交友譚』の〆の言葉にもなっていて、人生でビックリしたことの一つだそうだ。この言葉にあるのは、たとえ悲しくてもつらくても、笑い飛ばすしかないというユーモアスピリット。悩んだら、突き抜けるしかないということだろう。
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