「悠仁さまの東大進学」どこまで現実味があったのか 「今上陛下の東大進学説」が消えた理由

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天皇陛下と東大

「『トンボ論文』をめぐっては一般市民が中に入れない赤坂御用地をフィールドにしていることや共著であることから、不公平感や悠仁さまの関与の度合いが見えにくいのではないかといった指摘もありました。最終的に進学先として筑波大を選ばれたわけですが、“東大は確実に視野に入っていた”と聞いています。東大を回避した理由については“様々に検討した結果、世論に配慮したということは大きい”との話もありました。東大ならお住まいから近く、現在のような通学スタイルを取る必要もないため警備的な負担がまったく違います。そういった点を重視して東大進学を支持する勢力も宮内庁内にはいたようですが」(同)

 悠仁さまは戦後生まれの男性皇族として初めて国立大に入学することになったわけだが、世論を検討材料にした可能性が見え隠れする。

「実は天皇陛下ご自身にも東大進学の可能性があったと聞きました。しかし、昭和天皇が当時の東大にあった“一部の思想的な環境”に疑義を呈され、学習院大への進学が固まったとのこと。学習院にもわずかながら同様の“勢力”がいたようなのですが、自然な形で大学を去ることになったそうです」(同)

小室圭さんと眞子さんの結婚を巡る騒動

 天皇陛下が学習院大に進学されたのは、1978年4月のこと。ネットもSNSも存在せず、関係者が警戒すべき対象はもっぱら「リアル」に限られていた。皇室への批判的な意見は、一部では見られたものの、現在よりもはるかにタブー視されていた。また、皇室のためのさまざまな働きかけもスムーズだった。しかし皇室を取り巻く環境は大きく変わり、SNS上の声を無視するのが困難になってきている。特に小室圭さんと眞子さんの結婚を巡る騒動以降は批判的な声が目立つことも多く、眞子さんが皇室から離れ、幸せなアメリカ生活を送っているとされる今なお厳しい目を向ける人の存在が可視化されている状況だ。

 進学は人生のゴールではないため、当然、今後も悠仁さまが人生の選択をされる局面は続く。

 宮内庁の苦悩も続くこととなりそうだ。

デイリー新潮編集部

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