イチロー氏と首位打者争い 一時は打率3割7分も「抜かれることだけはわかっていた」 元ロッテ「平井光親」氏が、野球人生を語る
デビューから2年連続打率1割台の低空飛行から3年目の1991年に突如ブレイクを果たし、首位打者に輝いた平井光親氏。ロッテが千葉に移転し迎えた4年目は、まさかの控えからスタートとなった。
2回にわたってお届けする平井氏の特別インタビュー。前編では、幼少期から首位打者を獲得した3年目までの思い出を語ってくれた。後編は4年目から大学監督を務める現在に至るエピソードをお届けする。
【聞き手=八木遊/スポーツライター】
【前後編の後編】
***
【写真を見る】平井光親氏と同時代を戦った、平成「異色の野球人」たち
バレンタイン監督×広岡達朗GMの確執もベンチ内の雰囲気は悪くなかった
――前年に首位打者を獲得。4年目は千葉移転元年でした。
(平井光親氏、以下同)八木沢(荘六)監督が就任した年ですね。当時のロッテの外野手は層が厚くて、首位打者を経験した高沢(秀昭)さんと西村(徳文)さんの他に、横田(真之)さん、新外国人のマックスもいました。でもシーズン途中からスタメンで起用されることが増えました。
――前年の首位打者が開幕ベンチというのもすごいですが、その年は.281とまずまずの打率。しかし、93年は51試合で.225でした。
92年の途中から坐骨神経痛の症状が出ていて、93年は腰痛でバットを振るのがやっとという状態でした。腰痛の症状はその後も毎年1回は出ていて、結局、引退するまでの付き合いになりましたね。
――94年は自身2度目の規定打席に到達し、打率.281と復調の気配を見せました。そしてチームが2位に躍進した95年を迎えます。
2位といっても優勝したオリックスにはかなり離されていたので、躍進したという実感はなかったですよ。
――ボビー・バレンタイン監督と広岡達朗GMの確執も取り沙汰されました。
試合前にGMがグラウンドでミーティングを始めると、監督が嫌気がさして外野の方に歩いて行ってしまうなんてこともありましたね。両者の間に微妙な空気が漂っていることは察していましたが、ベンチ内の雰囲気は決して悪くなかったんですよ。
バレンタイン監督は日本の野球に合わせようとしていた
――多くのコーチがバレンタイン監督のやり方にクレームをつけていたとも聞きます。
その辺はあまり気にしないようにしていました。選手としては試合で結果を出すだけ。確かに言葉の壁もあってバレンタイン監督が浮いている部分もありましたが、何とか日本の野球に合わせようとしていたと思います。選手とのコミュニケーションも密で、凡退したからといって日本人監督のようにどやされることもない。いろんな意味でケアが上手な監督だったという印象ですね。
――バレンタイン政権は1年で終焉を迎え、江尻亮監督が新たに就任しました。
選手としてはその時の監督に合わせるしかない。切り替えるしかないという思いでしたね。
――江尻政権も1年で終わり、97~98年は近藤昭仁監督の下、2年連続で最下位に低迷。
近藤監督は私が知っている歴代の監督の中で最も気さくで話しやすかったです。主力選手の奥さんの誕生日には花を贈ることもあって、とても気配りのできる監督さんでした。
[1/3ページ]