打率1割5分「プロを舐めていた」24歳が首位打者に…元ロッテ「平井光親」氏インタビュー 伝説の川崎球場「内野席に客が6人しかいないこともありました」
2020年以降のパ・リーグで、ソフトバンクと並ぶ最多4度のAクラス入りを果たしているロッテは、吉井理人監督の下、今季も優勝争いが期待されている。
ひと昔前のプロ野球の勢力図を知るファンにとっては、ロッテがこれだけ安定した成績を残していることはにわかに信じがたいといえるかもしれない。ロッテは1980年代半ばから2000年代半ばまで長く低迷。1986年から2004年までの19シーズンのうち、Aクラスに入ったのは1度だけという“弱小軍団”だった。
そんなロッテの暗黒期を知る一人が、89年から02年まで外野手としてプレーした平井光親氏だ。58歳となった平井氏は、現在、母校の愛知工業大学で監督として采配を振るっている。
平井氏は2時間を超えるオンラインインタビューで、これまでの野球人生で経験してきた秘話やエピソードを語ってくれた。プロ入り3年目の首位打者争い、剛腕・野茂英雄氏との対戦、ボビー・バレンタイン監督と広岡達朗GMの間に勃発したお家騒動、シーズン途中までイチロー氏と首位打者争いを演じた1998年……。
プロ野球という弱肉強食の世界で14シーズンにわたってプレーした平井氏の特別インタビューを2回にわたってお届けする。
【聞き手=八木遊/スポーツライター】
【前後編の前編】
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【写真を見る】平井光親氏と同時代を戦った、平成「異色の野球人」たち
地元の私立高校のほとんどから勧誘
――まずは野球との出会いから教えてください。
(平井光親氏、以下同)小学4年生くらいのときに、2歳上の兄と一緒に地元にできたばかりのボーイズリーグのチームに入団しました。その少し前から柔道をやっていて、県大会で準優勝したこともあったのですが、すぐに野球一本に切り替えました。
――やはり当時から野球センスは光っていましたか。
兄と同じ年代のチームに入っても負ける気はしなかったですね。中学の時に全国大会で準優勝して、3年の時には地元(福岡県)のほとんどの私立高校から声を掛けていただきました。
――その中で名門の東福岡に進学しました。
実は当時の東福岡は名門というわけではなく、甲子園にもまだ出場していません。私の在学中も3年生の時の5回戦が最高成績だったと思います。
――その後、現在指揮を執る愛知工大に進みました。
関東の大学でセレクションも受けましたが、愛知工大の当時の監督さんが福岡の自宅までわざわざ足を運んでくださって。当時は愛知リーグ(愛知大学野球連盟)のチームからプロ野球選手も結構輩出していたので進学を決めました。
ドラフト当日は朝から釣りに
――大学2年の時には明治神宮大会で全国制覇も経験しています。
あの時は2学年上に西崎幸広さん(元日本ハム、西武)がいたので強かったんですよ。私は前年に準優勝した時はベンチ外でしたが、優勝した時はレギュラーで出させてもらっていました。
――1988年のドラフトでロッテに6位で指名されました。
実は大学卒業後は社会人のチームに入ることが決まっていました。ただ、ドラフト前日にロッテのスカウト部長から電話で、プロでやってみる気はあるかと聞かれて、「ドラフトに掛かったらやってみたいと思います」と答えた記憶があります。でも本当に指名されるのかは半信半疑で、ドラフト当日は朝から釣りに出掛けていました。帰宅してみると、家の電話が鳴っていて、新聞社の記者から指名されたことを聞かされました。
――プロ1年目はどうでしたか。
今思い返すとプロをなめていた部分がありましたね。合同自主トレで体をつくるものだと思っていたら、他の新人はそれまでにしっかり体を仕上げてきていて……。当時のトレーニングコーチに雷を落とされて、そこからあわてて体をつくりました。それでキャンプは二軍スタートだと思っていたのですが、なぜか一軍の方に呼ばれたんです。当時、打撃コーチを務めていた山本功児さんが自主トレの時の私の映像を見て抜擢してくれたらしいです。
――紅白戦、オープン戦と続いていくわけですが、初めてプロの投手と対戦した印象は。
よく打った記憶がありますね。オープン戦でも3割以上は打っていたと思いますが、開幕前の一線級投手はまだ肩が出来上がってない状態。こんなもんじゃないということは分かっていました。
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