「外国訪問には、雅子さまでなく秋篠宮家を…」 「人格否定発言」から21年 雅子皇后の“キャリアを否定”したのは誰だったのか
即位から7年。令和の世の“国民の象徴”としてすっかり定着なされた天皇陛下と雅子皇后陛下。おひとり娘の愛子内親王殿下も交えたご一家の仲睦まじいお姿も、度々報じられている。
【写真】スーツをビシッときめる雅子さま 2年間の英国留学を終え、帰国した際のレア写真(1990年、成田空港) 雅子さまこれまでの歩み
しかし今から20年余り前、当時、東宮家だったご一家が危機的状況にあったことをご記憶の向きは少なくないだろう。2003年末、雅子妃殿下(当時)は帯状疱疹の症状を発症されてご静養入りし、一時は軽井沢のご実家・小和田家の別荘で“ご別居”されるなど、国民の前からお姿を消された。そんな状態が5カ月も続いた2004年5月10日、デンマーク、ポルトガル、スペイン三国のご訪問を前にした記者会見で、皇太子殿下(当時)が雅子妃の容態を問われ、以下のような発言をなされたのである。
〈雅子には各国からのご招待に対し、深く感謝し、体調の回復に努めてきたにもかかわらず、結局、招待をお受けできなかったことを心底残念に思っています。ことに雅子には、外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を皇族として、大変な、重要な役目と思いながらも、外国訪問をなかなか許されなかったことに大変苦悩しておりました〉
〈雅子には依然として体調に波がある状態です。この10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です〉
雅子妃のご病状が芳しくないことは既に報じられていたが、原因については憶測が乱れ飛んでいた。それを公の場ではっきりと「皇室の環境」だと、他でもない雅子妃の夫君であり、将来の天皇である皇太子殿下が口にされたのである。あまりの衝撃に、居並ぶ記者たちは息を呑み、ペンを持つ手が止まったという。俗に言う「人格否定発言」である。
この発言はおおいに物議を醸し、賛同する者、あるいは反発する者双方が議論を戦わすことになった。そして、それはそのまま、新しい時代の皇室のあり方について、強く国民に問いかけることになったのである。
「週刊新潮」では当時、皇室関係者に取材し、この発言が生まれた背景を詳述している。それを振り返り、改めて新時代の皇室の在りようについて考えてみよう。
【前後編の前編】
(「週刊新潮」2004年5月27日号記事の再配信です。当時の記事のため、記事中の敬称は平成のものです。文中の「皇太子殿下」は現・天皇陛下、「雅子妃殿下」は現・皇后陛下を差し、同じく文中の「天皇陛下」は現・上皇陛下、「皇后陛下」は現・上皇后陛下のことを指します)
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衝撃的な発言を口にしたその翌日の5月11日夜。皇太子殿下は、天皇、皇后両陛下に欧州訪問の挨拶をするため皇居を訪れた。
当初の予定では、食事を共にしながら午後6時から9時まで過ごすはずであった。雅子妃は欠席。
しかし、皇太子は、予定を1時間早めて東宮御所に引き揚げたのである。
宮内庁関係者は、こう危惧する。
「外国訪問の前日に食事を兼ねて挨拶に伺うのは慣例です。ただ、予定を早めて切り上げたのは極めて異例でした。時間厳守が絶対の宮内庁ではありえないことです。公式発表では、殿下が翌日の準備を理由にして早めにお暇したということになっていますが、前日の会見のことで何か気まずい雰囲気になっていたのではないでしょうか」
5月17日、宮内庁は天皇、皇后両陛下が、
「社会的影響の大きい発言であり、改めて殿下から、その具体的内容が説明されなければ、国民も心配しているだろう」
と語ったことを明らかにした。
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