NHK大河「べらぼう」が深掘りする吉原の女郎 テレビからは見えないつらすぎる生活
明るくなるまで続いた労働
夜6時ごろ、妓楼(女郎屋)の縁起棚に置かれた鈴が鳴らされると、夜見世がはじまった。芸者や女郎見習の振袖新造が三味線で囃す「清掻」が演奏され、張見世の行灯に火が灯され、一気に遊廓らしい雰囲気になる。夜8時ごろまでに客に呼ばれた女郎は、その後、客との宴会に参加。10時ごろになると気が早い客は床入りを望んだようだ。
実際、吉原の正式な営業時間は夜10時ごろまでだったが、現実には午前0時ごろに鳴る拍子木が「中引け」の合図で、そこで妓楼の表戸が閉められ、以降は客をとらないことになっていた(店によっては1時や2時までやっていたようだが)。そして午前2時ごろに拍子木で「大引け」が合図された。以後は、宴会に興じていた客も女郎もみな床に就いた。
ところで宴会の際には、客は「台の物」と呼ばれる仕出し料理を注文することが多かったが、客が食事をしても女郎が一緒に食べることは、原則認められていなかった(宴会終了後に「台の物」を夜食として食べる機会はあったようだが)。また、ここまで女郎1人が1人の客を相手にすると想定して書いてきたが、吉原には1人が複数の客の相手をする「廻し」という制度があった。妓楼が売り上げを増やすのが目的だが、女郎にとっては大変な肉体的負担であったことはいうまでもない。
いずれにせよ「大引け」後、すなわち午前2時以降こそ、女郎の仕事は本番だった。たとえ客が寝入っても、先述のように女郎は眠れず、朝になって客を見送るまで「労働」が続いたのである。
重労働なのに休日は年に2日だけ
まともに寝られる時間がごくわずかで、食事は1日2食。それで特殊な肉体労働を延々と強いられた吉原の女郎。ここまで述べてきたように、相当に過酷な日々を送っていたわけだが、それでも休暇がしっかりとれるならまだいい。だが、現実には、女郎にあたえられた休日は、1年のうちで正月(1月1日)と盆(7月13日)の2日だけだった。
さすがにそれでは体がもたず、女郎たちは休日をつくったが、それには「身揚がり」をする必要があった。これは自分の揚げ代を自分で妓楼に払い、その代わりに休むという制度で、祝儀を弾んでくれる上客がいる売れっ子の花魁ならともかく、一般の女郎には厳しすぎる仕組みだった。
そもそも女郎は借金を払うために日々、体を張って過酷な労働をしているはずだが、その体を休ませるためには、さらに借金を背負うしかない。こうして借金を背負った女郎は、原則10年の年季明けがさらに遠のいた。
だから、足抜けと呼ばれた逃亡を企てる女郎も現れたが、成功例は稀だった。逃亡が発覚すれば見せしめの意味もこめ、衣服を脱がせて両手両足を縛って天井から吊るし、竹棒で殴り続けるといった苛烈な折檻を受けた。その結果、命を落とす事例もあったという。仮に足抜けが成功しても、親などの親族が残りの年季分を肩代わりさせられ、親兄弟が妓楼の下人になることもあったという。
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