昭和100年で振り返る「昭和のプロ野球」 板東英二は“救援専門投手のパイオニア”?令和だったらもっと評価されていた選手とは

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 今年は昭和100年。昭和9年(1936)に始まったプロ野球(当時は日本職業野球連盟)のリーグ戦も90年目を迎えた。昭和のプロ野球といえば、通算400勝を記録した金田正一(国鉄‐巨人)や“V9巨人の象徴”王貞治、長嶋茂雄のONといった投打の主役がスーパースターとして人気を集める一方で、リリーフ投手やユーティリティープレーヤーのような脇役はあまり評価されていなかった。令和だったらもっと評価されていてもおかしくない“昭和の侍”たちをピックアップしてみた。【久保田龍雄/ライター】

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令和なら、球界屈指のセットアッパー

 ホールドも存在せず、セットアップという呼称もまだ一般的ではなかった時代に、リリーフだけでシーズン130試合中77試合登板をはたし、当時のセ・リーグ新記録を樹立したのが、阪神の左腕・福間納である。

 1979年にドラフト1位でロッテに入団した福間は、即戦力と期待されながら1年目に肘を痛め、2年間で0勝1敗、防御率4.41と低迷。「契約金泥棒」と陰口を叩かれた。

 だが、30歳を目前にした81年開幕直後にトレードで阪神に移籍すると、野球人生が大きく開ける。82年に就任した安藤統男監督に中継ぎの適性を見出され、同年はプロ初勝利を挙げるなど、登板数も63試合に増えた。肩の仕上がりが早く、右打者にも通用する中継ぎ左腕は、翌83年にはリーグトップの69試合に登板し、リリーフだけで規定投球回数に到達。防御率2.62で最優秀防御率に輝いた。

 翌84年も8月29日のヤクルト戦でシーズン70試合目の登板をはたし、このペースでいけば、当時NPB最多だった1961年の西鉄・稲尾和久の「78」を抜くのは確実とみられていた。

 だが、先発、リリーフで400イニング以上を投げた稲尾の大記録を、1試合で長くて2イニングのリリーフ登板だけで抜くことに、当時、報知新聞記者で“記録の神様”と呼ばれた宇佐美徹也氏が異議を唱える。

 宇佐美氏は安藤監督に「(史上最多の)42勝を挙げた鉄腕・稲尾と4勝の福間を登板回数だけで比べるのは記録ではない」という趣旨の手紙を送り、“作為的”に稲尾の記録を抜くことのないよう要望した。

 こうした流れを受けて、9月以降福間の登板機会は減り、「77」でシーズンを終えた。

「僕の感覚からすれば、“77試合まで投げた”というより、“77で止まった”という感じなんですよ。(中略)今思えば、最多記録が作れなかったのは、ホントに残念です」(週刊宝石 1991年2月14日号)。

 2005年に阪神の後輩・藤川球児がリリーフだけで80試合に登板し、稲尾の記録を超えたときは、前出のような論争は起きなかっただけに、時代のめぐり合わせが悪かったとも言える。

 福間は翌1985年にも貴重な中継ぎとして8勝を挙げるなど、阪神の21年ぶりVと日本一に貢献しており、令和なら、球界屈指のセットアッパーとして高く評価されていたことだろう。

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