昭和100年で振り返る「昭和のプロ野球」 板東英二は“救援専門投手のパイオニア”?令和だったらもっと評価されていた選手とは

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1964年に日本球界に初めて導入された「投手分業制」

 1965年に20勝、現在の基準に換算すると41セーブポイントを記録した巨人のリリーフエース・宮田征典は、エースが先発、リリーフでフル回転するのが当たり前の時代にあって、リリーフ専門の草分け的存在になったことで知られている。

 そして、巨人戦が全国中継された恩恵を受け、宮田が“8時半の男”(試合終盤の午後8時半にリリーフすることに由来)として名を馳せたのに対し、その陰に隠れてしまった感があるのが、中日のリリーフエース・板東英二である。

 高卒2年目の1960年に10勝を挙げ、翌61年には開幕投手も務めた右腕は、その後故障で低迷するが、日本球界に初めて投手分業制を導入した近藤貞雄コーチによって、リリーフ専門として再生をはたす。

 64年から4年連続50試合以上に登板し、肩の痛みが消えた67年には先発投手陣に「すまん、すまん」と謝りながら、プロ9年目にして自己最多の14勝をマーク。前出の宮田とともに火消し役の重要性を知らしめた。

 実質1年の活躍で終わった宮田に対し、板東は65年に21セーブポイント、66年に24セーブポイント、67年に21セーブポイントに相当する成績を残しており、現在では板東を“NPBにおける救援専門投手のパイオニア”として再評価する声が高まっている。

令和なら確実に1億円プレーヤー?

 2017年オフにソフトバンクのユーティリティープレーヤー・明石健志、DeNA・大和がレギュラーではないのに1億円プレーヤーになったことが話題になった。

 昭和のプロ野球で明石や大和に相当する選手といえば、“控え選手の日本一”と言われた広島の内野手・木下富雄の名が挙がる。

 1974年にドラフト1位で入団も、二遊間は三村敏之、大下剛史、高橋慶彦ら強力なライバルがひしめき、現役14年間で一度も規定打席に到達できなかった。

 だが、時には隠し球も演じる堅守に加え、79年に25盗塁を記録した足、82年に10本塁打を放つなど、対左投手用の切り札として毎年100試合前後に出場。チームの5度のリーグV、3度の日本一に名脇役として貢献するとともに、トレードマークの口髭から“パンチョ”の愛称で親しまれた。

 これだけ使い勝手の良い選手なら、監督としても試合後半の勝負どころに取っておきたくなるというもの。

 前田恵氏の著書「野球酒場」(ベースボールマガジン社)によれば、近鉄・西本幸雄監督から「俺だったら(先発で)ずっと使う」と毎年トレードを申し込まれるなど、他球団のオファーを断りつづけた古葉竹識監督は、85年の退任時に「お前の給料を抑えとったのは、俺かもしれんのう」と申し訳なさそうに言ったという。令和なら確実に1億円プレーヤーになっていただろう。

 1970年代後半から80年代にかけての広島黄金期は、山本浩二、衣笠祥雄らのスター選手だけではなく、木下のようないぶし銀的存在のバイプレイヤーの働き抜きには語れないだろう。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘!激突!東都大学野球』(ビジネス社)。

デイリー新潮編集部

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