意識不明のまま搬送された病院で目を開け「歌ってくれ」と…「酒と泪と男と女」48歳の若さで旅立った「河島英五」の“歌バカ人生”

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 180センチを超える長身でギターをかき鳴らし、腹の底から響かせた野太い声で歌い上げるのは人生の切なさや喜び。2001年4月16日、「酒と泪と男と女」「野風増(のふうぞ)」「時代おくれ」などで観客を酔わせた河島英五さんがこの世を去った。曲のワンフレーズを口ずさむだけで、あの姿と声を鮮やかに思い出す人はいまだ多いだろう。音楽に始まり、音楽に終わった河島さんの生涯を振り返る。

(「週刊新潮」2001年5月3・10日号「『酒と泪』より凄かった歌バカ 『河島英五』48歳の生涯」をもとに再構成しました。文中の年齢は掲載当時のものです。敬称略)

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尊敬していたのは頑固な父

 まるで歌を口ずさんでいるかのような死に顔だったという。「酒と泪と男と女」で有名な河島英五が亡くなった。死因は肝臓疾患。だが、意外や本人は酒を控え、歌手生活に徹していた。48歳の若さだった。

 河島英五の葬儀は、死の2日後の2001年4月18日。音楽葬形式でおこなわれたが、一種独特の雰囲気だった。奈良市のセレモニーホールで最初に流れた曲は、むろん「酒と泪と男と女」。

 式がクライマックスを迎えると、長女でタレントのあみる(23=当時、以下同)や次女で歌手の亜奈睦(あなむ、21)、長男の翔馬さん(18)の3人の子供たちが、生ギターを手にそれぞれ別の歌を熱唱。出棺の際には、病床で河島がつくった「旧友再会」という遺作がスピーカーから流れ始めると、号泣とともに家族全員の合唱が鳴り響いた。

 河島英五は大阪生まれ。マネージャーの説明によると、

「彼が尊敬していたのはお父さんでした。マンガ『巨人の星』の星一徹みたいな頑固な人で、プラスティックの町工場を経営していたが、日本でビートルズが流行り出した頃、彼がジーパンをはいていただけで、怒鳴るほどだったそうです」

「酒と泪と男と女」誕生秘話

 その父親を説得し、30年前の花園高校時代にバスケット部の仲間と結成したバンドがホモ・サピエンス。当時、18歳でつくった曲が「酒と泪と男と女」だった。

「歌詞は、河島が工場の作業員の生活ぶりを見ていて思いついたらしい。『忘れてしまいたいことや……』と、飲むだけで憂さを晴らして愚痴をこぼさない男らしさに共感したそうです。いかにも河島らしい曲です」(芸能評論家)

 が、のちに大ヒットしたこの曲も、当初は鳴かず飛ばず。

「英五と出会ったのは昭和47年ごろで、いっしょに全国ツアーをしていたが先にこっちの方が売れてね。しばらく僕らの前座やバックバンドなんかをやっていました。あの風貌でドラ声。暑苦しいし、なかなか売れへんかった」

 と振り返るのは、フォークグループ「あのねのね」の清水國明だが、ヒットしたのは高校を卒業してから4年後の昭和50年。ファーストアルバムにこの曲を収めたところ、テレビCMに採用された。

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