「おならも必殺技」アンドレ・ザ・ジャイアントの孤独、「名言の宝庫」アントニオ猪木の闘魂
プロレスラー、ジャイアント馬場は、アントニオ猪木とっては「永遠のライバル」であり、アンドレ・ザ・ジャイアントにとっては貴重な理解者であった。
他界した29人のスターたちの生前の知られざるエピソードを集めた『スターの臨終』(新潮新書)。著者の小泉信一氏もこの本の刊行直前、病気のため63歳で亡くなっている。芸能に造詣の深い小泉さんだったが、プロレスへの思い入れも強かったようで、同書の中でもレスラーについての文章は特に熱が入っている。それぞれの偉業を網羅した弔辞といった趣すらあるのだ。
同書より、馬場とゆかりの深い猪木とアンドレという2人のレスラーのエピソードを紹介する。
『スターの臨終』(小泉信一著、新潮新書)から一部を抜粋し、再構成しました(文中・敬称略)。
猪木に国民栄誉賞を
この曲でどれだけ勇気と元気をもらったことか。アントニオ猪木(本名・猪木寛至)のテーマ曲でもある「炎のファイター~INOKI BOM-BA-YE~」。プロレスをあまり知らない人でも、これを聞けば「燃える闘魂・アントニオ猪木」を思い出すだろう。
高校時代にプロレス研究会を立ち上げ、猪木のさまざまな試合を自分の目で見続けてきた筆者にとっても、「闘魂の残照」はいまなお胸を熱くさせる。あのころは「馬場派」と「猪木派」でプロレスファンが二分されていたが、熱い、いい時代だった。
それにしても、難病「心アミロイドーシス」などとの闘病生活の末、猪木が2022年10月1日、79歳で亡くなった後も、「猪木に国民栄誉賞を」という声は依然として根強い。プロレス以外の業績にも目をやると、まさに国民栄誉賞クラスの活躍を猪木はしてきたのだから。
闘病する姿も発信
1989年、スポーツ平和党を結成して参院選で初当選。プロレスラーとして初の国会議員の誕生である。90年の湾岸危機では、フセイン政権下のイラクで邦人人質の解放に尽力。師匠・力道山(1924─1963)の故郷でもある北朝鮮には独自のルートを持っていた。33回も訪れ、スポーツ交流による日朝関係改善を訴えた。政治家・アントニオ猪木の足跡を私たちは忘れてはいけない。
SNS上で「天国を卍固め 釈迦もキリストも閻魔大王もきっとみんな猪木ファン」という投稿があった。まんざら冗談ではなく、「猪木ならありうるな」と思ってしまう。
晩年は難病と闘いながら、YouTubeで日常の様子を発信した。全盛期の雄姿からはほど遠くやせ細った姿だが、自身の姿を隠すことをしなかったのも猪木の人生美学だったのかもしれない。「迷わず行けよ、行けば分かるさ」。猪木がよく口にした詩「道」の一節が浮かんでくる。
猪木と言えば、相手に喝を入れる「闘魂ビンタ」も懐かしい。参議院の予算委員会では決め台詞の「元気ですか!」を放ち、委員長から「心臓に悪い方もいる」と注意されたこともあった。だが翌日、懲りずに再び絶叫した猪木。国会でも「規格外のカリスマ」だったと言っていい。
猪木らしい名言の数々
ショー的要素が強いプロレスとは決別し、「ストロングスタイルのプロレスをめざそう」と設立した新日本プロレスでは、数々の名勝負を繰り広げた。力道山時代には御法度とされた日本人同士の対戦カードも組んだ。猪木の愛弟子である藤波辰爾のほか、長州力、初代タイガーマスク(佐山聡)、前田日明(あきら)ら若手の育成にも励んだ。
だが、何よりも世間を驚かせたのは、1976年6月26日、「ザ・グレーテスト」を標榜したボクシングの世界王者モハメド・アリとの異種格闘技戦だった。会場は東京・日本武道館。45分フルタイムドローとなり、「世紀の凡戦」と酷評された。
アリへの莫大なファイトマネーの支払いで多額の借金を背負い、窮地に陥った猪木。
だが、その後、黄金期を迎える。「熊殺し」の異名をとった極真空手のウィリー・ウィリアムス(1951─2019)らとの異種格闘技戦を推し進め、世界の大巨人アンドレ・ザ・ジャイアント(1946─1993)や不沈艦スタン・ハンセン、超人ハルク・ホーガンらとの名勝負を繰り広げ、ファンを熱くさせた。
一方でさまざまな名言も残している。
「出る(闘う)前に負けること考える馬鹿がいるかよ!」
「馬鹿になれ。とことん馬鹿になれ。恥をかけ。とことん恥をかけ。かいてかいて恥かいて、裸になったら見えてくる。本当の自分が見えてくる。本当の自分も笑ってた。それくらい馬鹿になれ」
「迷わず行けよと言っても、俺にも迷う時もある」
どれも猪木らしい。1998年4月4日に東京ドームで行われた引退記念試合後のスピーチで、猪木が披露した詩がナンバー1だろうか。
「この道を行けばどうなるものか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けば分かるさ」
もちろん「元気があれば、何でもできる」も名言である。
盟友・ジャイアント馬場
さて、ここで永遠のライバルとも言われたジャイアント馬場(猪木より5歳年上)との関係について述べておきたい。プロ野球・読売巨人軍のピッチャーだった馬場。入門当初からスポットライトを浴び、翌年には海外への修業に出る。いわゆるプロレス界の「エリート教育」である。
一方の猪木は、力道山の付き人。心ないファンの中には「馬場へのねたみがあった」という声もあったが、勝手に作り上げたストーリーに過ぎないだろう。馬場がエンターテインメントとしてのプロレスをめざしたのに対し、猪木は「過激なプロレス」「ストロングスタイルのプロレス」をめざしたという違いがあった。アリとの一戦についても「プロレスは八百長」という世間の誤解を覆したかったに違いない。格闘ロマンを具現化した男と言っていいだろう。
1979年、「夢のオールスター戦」が開かれ、盟友・馬場と「BI砲」を復活させた。アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シン組を相手に勝利した時、「次は馬場VS猪木の夢のカード」とファンは期待したが、この対戦は実現しなかった。
実現しないで良かったと筆者は思っている。
2023年秋、猪木家の墓がある横浜市鶴見区の総持寺に銅像が建立された。ゆかりの深い選手や関係者が「1、2、3、ダーッ!」と拳を突き上げて追悼した。ファンにとっては新たな聖地の誕生だ。銅像に手を合わせるファンの姿は絶えない。歴史に刻まれた名勝負の数々。近年、アリとの対戦も、真剣勝負だったと再評価されている。
猪木よ、永遠なれ。令和の若き人たちが、あなたの闘魂を引き継ぐ。
アンドレ・ザ・ジャイアントという巨大な山脈
アナウンサーの古舘伊知郎が「人間山脈」「1人民族大移動」「現代のガリバー旅行記」などと絶叫したのが懐かしい。その本質は、あまりにも大きな肉体にあるのだろう。古館は、「1人と呼ぶには巨大過ぎ。しかし、2人と呼ぶには人口の辻褄が合わない」とも言っていたが、けだし名言である。
「大巨人」という異名で世界中の人々を沸かせたプロレスラー、アンドレ・ザ・ジャイアント(本名アンドレ・レネ・ロシモフ)である。彼は、父の葬儀に出席するため母国フランスに帰国中の1993年1月27日、心臓発作を起こしてパリのホテルで急逝。46歳という若すぎる死だった。
訃報を速報したAP通信によると、アンドレの身長は223.5センチ、体重は235.5キロとなっていた。でも、実際はもっと大きかったのではないか。特に体重については、田鶴浜弘著『プロレス大研究』(講談社・1981年)によれば、なんと270キロとなっていた。ちなみに、足の大きさは40センチもあったらしい。
いずれにせよ、「世界8番目の不思議」と呼ばれ、プロレス界でも常識を覆す桁外れの巨体。遠征先の北海道札幌市では、サッポロビール園で生ビールを大ジョッキで78杯も飲み、同園から追い出されたとか。伝説は数々ある。
無敵のレスラー
フランス出身のアンドレが日本のリングに初めて上がったのは1970(昭和45)年1月。国際プロレスの試合だった。当時のリングネームは「モンスター・ロシモフ」。
やがてカナダに転戦し、「アンドレ・ザ・ジャイアント」に改名した73年、ニューヨークを本拠地とするWWWF(現WWE)と契約。たちまち全米ナンバーワンの売れっ子レスラーとなった。その人気は「年収世界一のプロレスラー」としてギネスブックに掲載されたほど。しかも、そのころから「フォール負けなし、ギブアップ負けなし」の無敵のレスラーとして君臨した。
74年、アントニオ猪木が率いる新日本プロレスのリングに上がる。だが、猪木以外のレスラーでは試合にならないため、日本人レスラー3人が一斉にアンドレに挑むというハンディキャップマッチも組まれた。
おならも「必殺技」
ところで、アンドレは日本人が大嫌いだったそうである。それは、日本人が彼をあからさまに化け物(モンスター)扱いし、見せ物小屋の異形物のような奇異の目で見たからであろう。たしかに、日本での関心事は、どのレスラーがアンドレを持ち上げるか、誰がフォール勝ちを奪うかに集約されていた。いわば、アンドレは一方的に「やられ役」というか「汚れ役」を背負っていたようにも思える。
規格外の巨人にとって、日本という国は住みにくかったに違いない。驚くべきことに、アンドレは来日するたびに身長も体重も大きくなっていった。ゆで卵を一度に20個も食べていたからだろうか、試合中でも大爆音とともにおならを放ち、鼻がひん曲がるほど臭かったそうである。その悪臭はリングサイドにも漂ったことだろう。巨体を生かしたボディープレスやヒップドロップのほかに、おならまでもが必殺技になるとは何ともすごい話である。
そんなアンドレではあったが、亡くなったとき作家の夢枕獏が記した追悼文が興味深かった。
「異人の集団であるプロレス界の中にあっても、なお、彼は異人であった。彼自身が嫌いであった自分の肉体の特異性が、自分の人気を支えているという矛盾を、常に胸の中に抱え込んでいなければならなかったレスラーである」(朝日新聞・93年2月24日夕刊文化面)
アンドレの孤独を理解していた馬場
アンドレが亡くなった6年後には「東洋の巨人」ことジャイアント馬場が亡くなった。かつて馬場を見ると指をさし、「アッポー、アッポー」とはやし立て、笑い転げる子どもたちがいた。カメラでも持っていようものなら、それは大変。レンズを無遠慮に向け、シャッターを押し続けるのである。「ガリバー物語」で描かれた小人国の兵士らの弓矢攻撃のようなものだった。そんな時、馬場は終始無言。私も高校生のとき、川崎の体育館で子どもたちに囲まれている馬場を見たことがあるが、その眼は限りなく静かで、悲しみさえたたえているようでもあった。
だからなのだろうか。馬場はアンドレの孤独を理解していた人物と言われている。 90年4月、全日本プロレス、新日本プロレス、WWEの3団体合同興行「日米レスリングサミット」(東京ドーム)で、馬場はアンドレとタッグを結成(通称「大巨人コンビ」)。すでにリング上では往年のような動きができなくなっていたアンドレを引き取るような形で、全日本の試合に参戦させた。
馬場が率いた全日本はアンドレが最後にたどり着いた安住の地だったとも言えるだろうが、全盛期のアンドレが全盛期の馬場と闘ったらどんな試合になっただろうか。想像するだけでウキウキする。プロレスがショービジネスの一種であるとするなら、リングの内と外とを問わず衆人から好奇の眼で見られることは歓迎すべきことなのに、アンドレにとってはじろじろ見られるのはやはり苦痛だったのだろう。「俺だって人間だ」という思いを彼はいつも抱いていたに違いない。
「ゲラウェイ!(出ていけ)」
控室でプロレス記者に声を荒らげたことも何度かあったというが、いつも不機嫌だったアンドレは徹頭徹尾、孤独だったのかもしれない。