【べらぼう】一橋家に追い詰められ、一橋家で権力を増す田沼意次 毒殺疑惑後に迎えた“天下”
一橋治済の意に沿ってさらに権勢を増した
これは『べらぼう』の筋に即していえば、陰謀の黒幕、すなわち豊千代を次期将軍にしようとする勢力、すなわち一橋治済の利益にかなう行動をしたために、意次および田沼家の勢力が維持され、さらに発展した、ということにもなる。
天明元年(1781)閏5月、正式に家治の継嗣となった豊千代は、江戸城西の丸に入城して、年末には名を家斉とあらためた。すると同時に、一橋家の家老だった意次の甥の意致は次期将軍の御側御用取次見習に抜擢され、翌天明2年4月には見習ではない正式な御側御用取次なった。これは、家斉が将軍になったときに、側近の筆頭になるべき地位に就くことを意味した。
また、意次の嫡男、意知の地位が引き上げられていった。まだ家督すら継いでいないというのに、まず、天明元年12月に奏者番に抜擢された。これは江戸城内において、武家関係の典礼が円滑に進むように努めた役で、大名や旗本が将軍に謁見する際、その名前を読み上げたり、献上品の目録を報告したりした。
奏者番には優秀な若手が抜擢されるのが通例で、多くの場合、そこから寺社奉行、若年寄、大坂城代、京都所司代などを経て、老中へと出世していった。しかも意知の場合、その翌々年の天明3年(1783)11月に、ひとっ飛びに老中に次ぐ要職である若年寄に抜擢されている。そのうえ、父の意次とともに江戸城本丸御殿の中奥、すなわち将軍が起居し、日常の政務を行う場所に入ることが許された。事実上、親子で側用人を務めることになったのである。
将軍家治の死と同時に露骨な手のひら返し
しかし、これだけ権勢をふるい、しかも父子で要職を占めるとなると、周囲からは怨嗟の声が湧き上がってくる。享保20年(1735)、父の意行が死去して家督を継いだときには600石にすぎず、もとはといえば意行は、将軍吉宗の出身地である紀州での身分は、足軽に等しかった。それだけに、異例の出世を妬む声も絶えなかった。
そして、天明4年(1784)3月24日、事件は起きる。将軍の身辺警護を務める新番の一人、佐野善左衛門が意知に斬りかかり、周囲にいた者は慌てて逃げてしまったため、さらに斬られ、これが致命傷になったようで、出血多量が原因で2日後に死去する。幕府はこれを、佐野の乱心ということで収めたが、おそらくは政治的なクーデターだろう。のちに老中になった松平定信も、このころ密かに意次を刺殺するべく機会をねらっていたと、のちに書き遺している。
だが、それでも翌天明5年(1785)1月、意次にはさらに1万石が加増され、これで5万7,000石の中堅大名になった。しかし、田沼を支えた将軍家治が天明6年(1786)8月25日に死去すると、2日後には老中職を解かれ、閏10月には2万石および江戸の上屋敷や大坂の蔵屋敷を没収され、その翌年には蟄居を命じられたうえで、残りの所領も召し上げられて、孫の意明に辛うじて奥州下村(福島県福島市)に1万石があたえられ、辛うじて大名としての存続だけは認められた。
やはり一橋治済は、世を渡るという点では意次より一枚上手だったということか。田沼家に目がないとみると、田沼一族をみな切り捨てた。むろん、意致も次期将軍の御側御用御取次を罷免されている。
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