捨てる神あれば拾う神あり…20代半ばで“クビ通告”も、新天地でやり返した「北別府2世」「立浪2世」ら不屈の男たち

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「まだ野球がやりたい。自分でできると思っているうちは」

 ドラフト1位で中日に入団し、“立浪和義2世”と期待されながら、24歳でまさかのクビ通告を受けたのが、森岡良介である。

 明徳義塾時代は主将として2002年夏の甲子園大会優勝に貢献。中日入団後も1年目から1軍出場をはたしたが、不動の二遊間、荒木雅博、井端弘和の壁を破ることができなかった。

 08年は出場わずか5試合に終わり、11月5日の秋季練習中に戦力外通告を受けた。4月23日の2軍戦のソフトバンク戦で、三振に倒れた後輩を激しい言葉で叱ったコーチと衝突する事件を起こし、1週間の謹慎処分を食ったことも影響したといわれる。

 だが、「まだ野球がやりたい。自分でできると思っているうちは」と11月11日のトライアウト受験を表明すると、ヤクルト・高田繁監督が「高校時代から知っている。あれだけの選手だから」とラブコールを送ってきた。

 落合博満監督の温情で、解雇後も引き続き秋季練習参加を許された森岡は、スタンドのファンの「頑張れ!」の声援を背に、シート打撃で中越えのランニングホームランを放つなど、センスの良さをアピール。

 トライアウトでは、4打数無安打1四球に終わったが、「今日もソツのない走塁を見せた」(渡辺進編成担当)と評価は変わらず、翌12日からヤクルトの松山キャンプ合流が決まる。

「1回死んでいる身。どんどん前へ行くだけです」と新天地・ヤクルトでの飛躍を誓った森岡は、13年に自己最多の109試合に出場するなど、貴重なバイプレイヤーとして長年活躍。生え抜きではないのに選手会長を務めたことでも知られている。

「他球団で見返してやる」とバッティングセンターに住み込みで働く

 “20代半ば解雇組”の出世頭と言えそうなのが、通算1400安打、175本塁打を記録した山本和範である。

 生まれつきの難聴というハンデを乗り越えて、ドラフト5位で近鉄入団4年目の1980年に1軍昇格をはたした山本は、5月10日の西武戦でプロ初本塁打も記録したが、その後は結果を出せず、25歳を目前にした82年オフに戦力外通告を受けた。

 その日のうちに寮を追い出され、「ああ、これからどうなるんやろう」と目の前が真っ暗になりかけたが、同郷の同期入団の投手・久保康生が救いの手を差し伸べてくれた。

 その後は、久保が紹介してくれたバッティングセンターに住み込みで働きながら、「他球団で見返してやる」と体づくりをつづけた。

 そんな矢先、南海の新監督に就任したばかりの穴吹義雄が「獲りたい」と連絡してきた。実は、山本は高校時代に南海の入団テストを受け、当時の穴吹2軍監督から「4~6位くらいで指名する」と約束されていたが、近鉄が先に指名したため、入団できなくなったといういきさつがあった。6年の回り道を経て元の鞘に収まった形だ。

 南海移籍後、2年目からレギュラーとなった山本は、ダイエー時代の93、94年に2年連続3割をマークするなど、長く主力として活躍した。

 今回紹介した選手はいずれも、戦力外通告を受けても、早い段階で次のオファーが来ている。年齢的にまだ若く、環境が変われば能力を発揮できる可能性のある選手は、必ずどこかで見ている人がいるということがわかる。

 昨季阪神を戦力外になり、オリックスと育成契約で再スタートした23歳の遠藤成も石川に続きたいところだ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘!激突!東都大学野球』(ビジネス社)。

デイリー新潮編集部

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