【追悼】元中日「ブランコ氏」の現役時代を知る関係者が明かす“在りし日の姿” 「メジャー経験者特有のわがままがなく、どのチームにも溶け込んだ」
無名の存在
ブランコさんは、97年、レッドソックスのアカデミー入り。2005年にナショナルズでメジャーデビューを果たす。56試合に出場し1本塁打、7打点、打率1割7分7厘と振るわずメジャーはこの1年のみ。マイナーに属し、シーズンオフは母国で調整を続けた。
「メジャーリーグ経験者とはいえ無名の存在。その彼を08年、当時中日の森繁和コーチが見いだした。森さんは以前から毎年この国を訪れ、性格や練習態度も見極めて選手を獲得しようとしていた」(福島さん)
“格安の助っ人”
年俸は30万ドルで「格安の助っ人」とからかわれた。09年開幕戦、初打席でいきなり本塁打を放つ。5月には飛球がナゴヤドームの高さ50メートルの天井にあるスピーカーを直撃、同球場初の認定本塁打に沸いた。
当時中日ファンだった、詩人で作家のねじめ正一さんは振り返る。
「ブランコには日本人野球の匂いがしました。落合博満監督は細かな指導などしない。ブランコは鍛練を重ね、こういうことか、と気付いて開花した。三振が多くても気を抜いたスイングはなかった。それを落合監督も理解していて、不調でも4番から外さない。ブランコ人気に中日は試合前の打撃練習を公開。私も並んで見に行きました。繊細かつ陽気な好人物でしたね」
「チームに溶け込んだ」
1年目に39本塁打、110打点で2冠王に輝く。
「予想をはるかに上回る活躍。一芸をひっぱり上げる落合監督のやり方に合っていた」(ねじめさん)
観戦に来ていた妻子を待たせようが、試合後に居残り練習をする。13年、DeNAに移籍し、打率と打点で再び2冠王。15年にオリックスに移ってからは故障がちで翌年現役を退く。
日本では8年間で750試合に出場。725安打、打率2割7分2厘、181本塁打、542打点。
「メジャー経験者特有のわがままがなくどのチームにも溶け込んだ」(福島さん)
帰国後、物流会社の経営に携わる。長男が22年以来パイレーツ傘下のマイナーリーグに属し期待していた。
そして、突然の悲報。
近年も、真面目に生きることや時間を守る規律の大切さなど日本での経験が今も生かされていると語り、当時を懐かしがっていた。
[2/2ページ]

