惜しくも引退…“球界最後の武闘派”中島宏之の名場面&乱闘シーン!「無名の公立校」からプロ入り、同じ立場の球児にエールを贈る姿も

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「オリックスはしょうもないチーム」

 西武時代の中島といえば、オリックスとの“遺恨試合”もよく知られている。2011年7月11日のオリックス戦、8対1とリードの6回1死二塁、カウント1-0から高宮和也の2球目を左脇腹にぶつけられた中島は、初球がボールになった直後、福間納コーチがマウンドに足を運んだことを「あり得ないタイミング」と疑念を抱いていたことから、「あからさまだ」とバットを放り投げて怒りを爆発させた。

 たちまち両軍の監督、コーチ、選手がグラウンドに飛び出し、もみ合いに発展。中島を非難するオリックス・山田勝彦コーチに、西武・渡辺久信監督が「当てたほうがゴチャゴチャ言うことじゃない」と声を荒げるシーンもあり、警告試合となった。

 さらに翌12年9月13日のオリックス戦でも、7対1とリードの7回、先頭打者の中島は西川雅人の初球があわや頭部直撃の危険球になったことに激高。怒りをあらわにしてマウンドに向かうと、西川も一歩も引かずに対抗し、再び乱闘寸前の騒ぎになった。
 
 2年続けての死球騒動に、「オリックスはしょうもないチーム」と非難した中島だが、米国から帰国後の15年にそのオリックスに入団するのだから、これも運命の不思議さである。

「たぶん私立に行ってたら、嫌になって辞めてたと思います」」

 翌16年9月21日の古巣・西武戦では、T‐岡田死球のあと、自らも左腰に連続死球を受けると、マウンドの牧田和久に向かっていこうとして、捕手・岡田雅利に止められた。ただし、本気で怒ったわけではなく、「内角を投げにくくさせたろ」という作戦だったという。直後、オリックスは2死満塁とチャンスを広げ、「中島さんの姿を見て、気持ちを入れていかなきゃと思った」という代打・駿太の決勝2点タイムリーが飛び出した。

 そして、引退の引き金となったのも、死球だった。巨人を戦力外になり、中日移籍後の昨年4月13日の阪神戦、中島は6回に押し出し死球を受けた際に右手中指骨膜を損傷。1ヵ月後に復帰も、結果を出せないまま登録抹消され、オフに戦力外通告を受けた。

 通算141死球はNPB歴代7位。これも強打者の証明と言えるだろう。

 筆者は1度だけ西武時代の中島を取材する機会があった。グラウンドで闘志を剥き出しにする姿とは裏腹に、明朗快活で、話しやすい人だった。彼は、兵庫県立の伊丹北出身だった。

 無名の公立高校からプロ入りして成功を収めるまでの体験を紹介してもらう取材の中で、中島は

「公立で伸び伸びとやらしてもらえたのが良かったと思いますね。たぶん私立に行ってたら、嫌になって辞めてたと思います」

 と回想し、

「人と同じことやっててもしゃあないし、やっぱり自分で考えながら根気よくやればいい結果につながるんじゃないかな。あとは(途中で)辞めんとったら、プロ野球選手になれるかもしれないから、県立の高校生、頑張れ」

 と後輩たちにエールを贈っていた。

 “公立の星”の中から、第2、第3のナカジが現れることを期待したい。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘!激突!東都大学野球』(ビジネス社)。

デイリー新潮編集部

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