「リスの肉を食べたことも」 日本を愛する世界的歌姫のすさまじい貧乏エピソード

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 世界的な人気歌手、シンディ・ローパーが今月来日する。これまでもたびたび来日公演は行われてきたが、今回は「フェアウェル公演」とうたっていることもあり、チケットの売れ行きも上々。日本武道館では再追加公演まで行うことになった。

 無名時代、ニューヨークの日本料理店で働いた経験があることもあって、彼女と日本との結び付きの強さを示すエピソードは多い。

 中でも多くのファンがいまなお感謝の念と共に思い出すのは、2011年、東日本大震災の時のものだろう。

 3月11日、震災の当日、彼女は日本に到着した。多くの在日外国人や来日アーティストらが震災直後に日本を離れたのに対して、彼女は日本に残り、公演を行った。余震に加え、福島第一原発がどうなるのかも不透明な状況だったので、日本から脱出しても決して責められるようなことはなかっただろう。

 にもかかわらず彼女は日本にとどまった。節電要請に応え、最低限の照明でライブを行い、世界に日本の窮状、支援の必要性を訴えてくれたのだ。その言動は、会場に訪れたファンのみならず、多くの人を勇気づけた。

 こうした振る舞いについては「親日家だから」という解釈も可能だろう。一方で、彼女のキャリアにもその理由を見いだすことができるかもしれない。

 欧米のアーティストの不道徳なエピソード、規格外の人生について紹介した『不道徳ロック講座』(神舘和典著)には、シンディ・ローパー自身が明かした驚異の貧乏生活についての項がある。一部を抜粋してご紹介しよう(以下は同書をもとに再構成しました)。

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「十七歳で家を出た。歯ブラシと下着の替えとリンゴひとつ、それとヨーコ・オノの本『グレープフルーツ』を入れた紙袋を持って」

 これは『トゥルー・カラーズ シンディ・ローパー自伝』(シンディ・ローパー、ジャンシー・ダン著/沼崎敦子訳/白夜書房刊)の冒頭の記述だ。

 自伝は、ニューヨークのクイーンズの家から出るシーンから始まる。行先は姉が暮らすロングアイランド。1970年のことだった。

 シンディが生まれたのは1953年。ブルックリンで暮らしていた両親はシンディが5歳のときに離婚。一緒に暮らす母親の再婚相手はDV。一緒に暮らすことなどできなかった。

 シンディの下積みは長い。メジャーデビューは1983年。30歳のときだった。ミュージシャンを目指し10年以上、貧乏な暮らしをしていたことになる。

 最初に参加したバンドではメンバーに乱暴されている。望まない中絶もしている。最初のマネージャーにギャラの持ち逃げをされている。次の卑劣なマネージャーにデビューも妨害されている。そんなことが自伝には綴られている。それでも心は折れなかった。文章に悲壮感はない。逞しい。

 17歳で姉、エレンのアパートに転がり込み、最初に就いた仕事は出版社の秘書兼受付係だった。しかし、数か月で解雇される。

 シンディはセクシーな衣装で出勤し、オフィスの正面玄関でビールを飲みながら受付業務を行っていた。オフィスでは当然注意された。

 郵便物を確認していると、退屈で居眠りをしてしまう。電話応対もできなかった。

「電話をかけて来た人が何をほしがっているのか全然わからなかった。彼らの多くが電話越しに叫んでたわ。切っちゃう人もいた」(『シンディ・ローパー自伝』より、以下・引用は同書)

 その時期に導入された電動タイプライターも扱えなかった。

「私が1分間に19字しか打てないとわかると、ついに上司が私を彼女のオフィスに呼んだ。彼女は美しい黒人女性で、賢くて、スタイリッシュで、そんなに長い間私を我慢するくらい優しかった。彼女は私のことはとても好きだけど、今までに出会った中で最悪の秘書だと言った」

 シンディは本人が言うところの物乞いもする。愛犬を連れてダウンタウンのヴィレッジへ出かけた。

「小銭を分けてもらえませんか?」

 行き交う人に次々と声をかけた。

「犬を売れ」

 そう怒鳴られることもあった。ごもっともだ。

 しかし、シンディはこの程度のことではめげない。10代ですでにタフな神経が育っていた。極寒のニューヨークの冬を越すための服がなく、クリスマスのイルミネーションが輝く百貨店で万引きもしている。盗み方はアルバイトをしていた靴店の同僚から教えられた。

「最初に盗んだのはコートだった。クリスマスの頃で、すごく寒かった。それからホワのためにドレス、エレンのためにスカートを盗んだ。私はどうにでもなれって思っていたけど、そんなことをするのはイヤな気分だった」

 それ以後、彼女は二度と万引きはしなかった。ホワは姉のエレンの同居人だ。

リスを食べたシンディ

 シンディは18歳のときにヒッチハイクでバーモント州バーリントンへ向かう。そこでトミーというボーイフレンドと暮らした。

 トミーは働かず、シンディは失業し、食べるものがなくなった。するとトミーが猟銃を手に出かけてリスを仕留めてきた。獲物が鹿でもイノシシでもなく、リスというところが悲しい。よくもそんな小さくて動きの速い動物を捕らえたものだ。食べられる部位はほんのわずかだった。

 シンディは魚をさばく要領でリスを処理し、わずかな肉を煮込んだ。そして、トミーが連れてきたタクシー・ドライバーにふるまう。このカップルは自分たちが食べるものがないにもかかわらず、妙に気前がいい。

「ほんとうにおいしいね。これはどういった肉なの?」

 ドライバーに聞かれて、シンディは鶏だと答える。

 相手は信用しない。しかたがなく、彼女は処理したリスの頭と生皮を見せた。ドライバーは顔色を変えた。

 シンディは高卒資格認定試験を通り、奨学金を得て、ジョンソン州立大学で美術を学ぶ。生活費はないので、クラスの一つでモデル(服は着ない)の仕事もした。

 しかし、ギリシャ史の単位を落とし、英語の成績も芳しくなく落第する。シンディは中退し、奨学金分は借金になった。ニューヨークに戻った彼女は体を見せるダンサーの仕事で生活をつないでいく。

 ニューヨークでも、バーリントンでも、シンディは次々と仕事を替え、交際相手を替えていく。

 同時代のスター、マドンナは自分のステージが上がると、付き合う相手もハイクラスになる。ステージを上げていくマドンナに男たちは置いていかれる。対等に付き合うには、相応のエネルギーがなくてはならない。

 シンディは逆に、働かない男とか、二股男とか、風呂に入らない男とか、一昔前の言葉で言えば“ダメンズ”ばかりと付き合ってしまう。「私は金持ちをほんとに好きになったためしがない」と、シンディは打ち明けている。この時期に自己破産申請もした。

 自伝からは、シンディのキュートな人柄が伝わってくる。聞き書きする執筆者に語るとき、著者であるシンディはおそらく楽し気に語ったのだろう。そして、執筆者はシンディに対して愛情を持って書いている。だから、この自伝の読者の多くはシンディを愛する。

 1984年、シンディのファーストシングル「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」は各国チャートで1位になった。セカンドシングルの「タイム・アフター・タイム」は『ビルボード』誌でも1位。スタンダードナンバーとして世界中のアーティストがカバーしている。

 デビュー即ヒットしたので、シンデレラ的な見方をする報道もあった。しかし、シンディはこのときすでに30歳。キャリアは十分だった。デビューまでの期間が長く“タメ”があるアーティストならではのすごみがあった。

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