個人事務所は“大奥”状態…息子が見た昭和の名優・若山富三郎の破天荒すぎる「艶福人生」
第1回【交通事故で死んだはずの父親は「若山富三郎」だった…20歳で再会もいきなり「一番下っ端の付き人」となった息子の告白】を読む
演技は一流、存在感は唯一無二、ただし破天荒――。昭和の名優、若山富三郎さんが62歳で世を去ったのは1992年4月2日のこと。弟の勝新太郎さんと並んで、生前の強烈な個性はいまも語り草である。今回はそんな富三郎さんの息子、若山騎一郎が2010年に明かした「父の艶福人生」をお届けしよう。
(「週刊新潮」2010年7月1日号「息子が明かす『若山富三郎』艶福人生」をもとに再構成しました)
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“先生”から“お父さん”に変わる瞬間も
その一方、“先生”から突然、“お父さん”に変わる瞬間がありました。撮影で京都のホテルに泊まっていた時のことです。父は重度の糖尿病で食事の前に必ずインスリン注射を打たなければいけない。ところが、東京からインスリンは持ってきたものの、注射器を忘れてしまったのです。
父は僕を含めた事務所のスタッフに対して、もの凄い剣幕で、「俺を殺す気か!」と怒鳴り散らしていました。スタッフの一人が注射器を手に入れるために外に飛び出していきました。僕が恐る恐る父の部屋に入ると、真っ赤な顔をした父がガラスの灰皿に手を伸ばして、今にも殴り掛からんとばかりにそれを持ち上げたのです。「嘘だろ」と思って身構えた瞬間、
「お前、こっちへ来い。お前な、ちっちゃい時、これを持って、俺を殴ってきたんだぞ。お前だけだよ。そんなことをしたのは」
と急に猫撫で声になったのです。僕はどう言っていいか分からず、「申し訳ありませんでした」と謝るしかなかった。
女性には優しいが…会社は「父の大奥」に
僕には殴る蹴るの父でしたが、女性には本当に優しかった。絶対に手をあげたりはしません。
若山企画には、女社長をはじめ、20代から40代までの女優を目指すお弟子さんや、父の身の回りの世話をしてくれるお手伝いさんが何人もいました。ほとんどは父の“お手つき”。その昔、父と関係を持っていた人もいれば、父との関係が“現役”の人もいる。つまり、“大奥”状態でした。
事務所で話を聞いていると何となく分かってくるんです。お手伝いさんは、僕のいる前で、「昔、やったことがある」なんて平気で言う人もいるし、別の女性は、社長のことを、「あんなの相手にしなくていいわよ」と耳打ちしてくる。
社長はお金を握っていたので、その分やっかみも多かった。みんなそれぞれ焼き餅を焼いて、陰で悪口を言い合っていましたね。派閥もあって、社長派、女優派、お手伝いさん派と分かれ、父を巡る暗闘が繰り広げられていたんです。
僕は息子だから許されていたようなものですが、あそこは男が決して立ち入ってはいけない世界でした。じめっとした暗くて陰鬱な空気が漂っていたんです。
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