個人事務所は“大奥”状態…息子が見た昭和の名優・若山富三郎の破天荒すぎる「艶福人生」
結婚すると辞めていく
付き人の僕は、父の仕事がないオフの日でも必ず事務所に行っていましたが、何故か、僕以外にも4、5人のお弟子さんやお手伝いさんたちがいるんです。
父はテレビを見ながら、「新聞!」とか「お茶!」とか「肩揉んでくれ!」とか言うのですが、そんなことは僕一人で応じれば、事足りる。彼女たちはいったい何のためにここにいるのだろうと思っていました。
毎日、みんなで揃って夕食を食べる。僕はだいたい7時か8時においとましましたが、彼女たちは残っていました。みんなそれぞれ家があるので、帰っていたとは思いますけど……。さすがに既婚女性はいませんでした。というより結婚すると辞めていくんです。
ある時、中堅の女優さんが突然いなくなったことがありました。僕が、「どうしたんですか?」と父に聞くと、「死んだ」と言う。けれど、その人が父の葬儀に顔を見せていました。彼女も“お手つき”の女性の一人だったのかも知れません。
事務所での父は「雄ライオン」
実をいうと、父にとって、私の母との結婚は二度目でした。
《一度目の結婚は昭和33年。騎一郎氏の5歳年上の姉・佳代子さんが生まれた》
姉の母は当時、ハワイ在住の日本人女性で、父が現地に行った時に知り合ったそうです。父に恋した彼女は、日本まで追いかけてきて結婚し、姉を産みました。けれど、父の女癖の悪さが原因で離婚し、姉は父の実家である奥村家に引き取られ、育てられました。
だから、姉と僕は小さい頃は、奥村家で一緒に暮らしていました。姉は、僕の母の礼子を実の母親と思っていたそうです。父と母が離婚して、母が家を出て行く時、僕だけを連れていったので、「どうしてなの」と思ったそうです。
世間ではほとんど知られていませんが、僕にはもう一人、兄がいます。彼が若山富三郎の本当の長男ということになります。彼の母親は東京に踊りの稽古に通っているうちに父と知り合い、ただ一回の交渉で兄を身ごもったといいます。彼女は未婚のまま兄を産み、一人で育てました。認知はしているようですが、仕送りはしていなかったと思います。兄は、父には数えるぐらいしか会ったことがないと言っていました。
今になって思えば、父は無責任なようで、決して無責任ではなかったんじゃないか、と思います。父と関係を持った女性が身ごもって、「産みたい」といえば、反対はしなかったんだろうと思うし、少なくとも、姉と僕は父に面倒を見てもらいました。
事務所では何人もの女性が父のそばに侍っていましたが、思い起こせば、まるで雄ライオンの周りを何頭かの雌ライオンが囲んでいるような光景でしたね。
***
「自分の父親が若山富三郎だと確信したのは、14歳の時のことだった」――。第1回【交通事故で死んだはずの父親は「若山富三郎」だった…20歳で再会もいきなり「一番下っ端の付き人」となった息子の告白】では、20歳になって初めて父と会うことになった経緯や、他にもいた”隠し子“について明かしている。
[2/2ページ]