横尾忠則が“一番好きな場所” 押し入れ、アトリエの次は「死後の世界」

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 子供の頃、「好きな場所」は押入れの中だった。この暗い棺桶のような狭い閉じられた秘密の場所に這入っていつの間にか眠ってしまう。恐らく親が今頃探しているだろうと思うと、何んともいえない快感が身体のあちこちから沸々と湧き出てくるようで嬉しくなったのを今でも時々想い出す。

 その後、好きになった場所は新幹線の座席だった。隣に誰か来ないように願いながら、原稿用紙を拡げて、何か書くわけでもなく、ぼんやりと走り去っていく風景を眺める快感は特別のものだった。手前の風景はサッと走り去るが、中程の風景はまるで廻り舞台のように、例えば建物などはぐるりと半回転して見せてくれる。遠くの風景はほとんど静止したままに見えるが、それもいつの間にか窓のフレームから消えている。とにかく向こうの風景がこんな風に身体を固定したままに勝手に移動してくれるのはまるで映画を見ているようで、いつまでも乗っていたいと思うのは心を子供にしてくれるからではないでしょうかね。

 そして、現在、一番好きな場所といえば、絵を描く場所、アトリエですかね。家のベッドの中も好きな場所ですが、最近は目が覚めるとすぐアトリエに行きたくなります。アトリエは仕事場ですが、仕事が好きというわけではなく、アトリエそのものが、脳だからですかね。でも脳は考える場所ですが、僕の場合、考えない場所としてのアトリエが好きなんです。

 アトリエは、まあ僕にとってはサンクチュアリ、聖域みたいな所です。先日、UFOの話を書きましたね。別の言い方をするとUFOの母船のような場所です。UFOは操縦者の想念で飛行するといわれていますが、アトリエも僕の想念装置みたいなものです。アトリエに入ったまま、世界中だけでなく宇宙まで飛んでいきます。そういう意味では僕は宇宙飛行士です。

 アトリエの内部は絵を描く装置がゴジャゴジャ散乱しています。脳がそのまま、アトリエの床いっぱいにはじけているのです。脳の中味が全部露出していないと安心できないのです。

 脳の内部の器具をばらばらにして、その器具は全く機能を停止しています。つまり考えないようにした脳です。考えたら絵は描けません。脳を解体してそこら中に散らかして初めて、僕の脳は考えない脳として機能するのです。

 考えている間は絵は描けません。思考がストップすると、禅の三昧(さんまい)みたいにジワジワと何かしらが浮かんでくるのです。そうなったらキャンバスに向かいます。いつもアトリエの壁いっぱいに、描き上った絵が並んでいます。展覧会場の壁に掛けてもらうのを待機しているのです。絵は壁に展示されて初めて絵として存在するのです。一度展覧会場の壁に掛けられた絵は加筆することはありません。

 アトリエに並んでいる絵は新幹線の車中から眺める風景のように移動をしてくれません。固定したままの風景は重っ苦しく感じることがあります。サーッと新幹線の風景のように後方に走って消えてくれればいいのにと思うのです。目の前で微動だにしないでじーっとこちらを眺められているのはあんまりいい気持ちがしません。

 作者と絵との関係は変な関係です。絵を描き始めた時から一筆一筆が飽きてしまうのです。完成らしい状態はないので、全て未完のままですが、それでも画面いっぱいに色を塗りたくった頃には、描いた絵に完全に飽きてしまっています。だからですかね、次から次へと描くのは。

 話が横道にそれました。好きな場所について書き始めたのですが、このまま文を進めるとアトリエに呪縛されているようで、アトリエが好きどころか嫌いな場所になってしまいそうです。

 さて、次に好きな場所はどこでしょうか。スケールがぐんと大きくなりますが、次というか最後に好きになる場所は僕の場合は死後の世界です。ここは人間が誰でも最後に行く場所です。行きたくない人が大半でしょうが、僕は終いの場所としてここに行くことを、今から楽しみにしています。ここはアトリエと直結した場所だと思っています。僕の場合は、生のエネルギーで絵を描いているのではなく死のエネルギーで絵を描かされているように感じます。

 大方の画家は晩年、死と対決します。つまり死と自然に同化していくのです。名作といわれる絵画のほぼ全ては死を暗示しています。画家にとって死は安住の場所です。子供の頃、棺桶のような狭い押入れが好きだったことと、死ぬことはどことなく通底しているような気がします。死から始まって死で終るのがぼくの好きな場所ということになるように思います。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年2月20日号掲載

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