松任谷由実も大ファン、東京コミックショウ「ショパン猪狩」の生き方 色物芸を支えた妻・千恵子さんとの絆

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 笛を吹くと3つ並んだ籠の中からニョロニョロと出てくるカラフルな蛇。一度見たら忘れられない芸風で一世を風靡したのが東京コミックショウのショパン猪狩さん(1929~2005)です。国内はもちろんあの国際的な大物歌手も大絶賛した独特な芸が誕生するまでにはどんなことがあったのか。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今週はショパンさんの芸だけでなくコンビを組んだ妻との秘話にも迫ります。

フランク・シナトラが「アメリカに連れて帰りたい」

「世の中の芸で、これほどバカバカしくて面白くて、一度見た人に永遠に残る芸も珍しい」

 毒舌で知られた落語家の立川談志さん(1936~2011)が絶賛していた。金ピカの派手なチョッキにダブダブのズボン。アラビア風の奇妙な格好で、怪しげな英語を操っていたのが東京コミックショウのショパン猪狩(本名・猪狩誠二郎)さんである。

「ヘーイ、レッドスネーク、カモン! ユー、アー、ナイスジェントルマン。プリーズ、オープン、ザ、ドア」

 と、こんな感じ。ピーヒャラ、ピーヒャラと笛を吹けば、あら不思議。赤、黄、緑の籠から蛇のぬいぐるみが顔を出すではないか。まるでインド大魔術だ。

 実は、両手に蛇のぬいぐるみをした人が箱の中に隠れていた。「これ、うちのカミさん。可愛いだろ」。はにかみながら妻の千重子さんを紹介すると、客席は再び大笑いとなった。

 そう、いまでは珍しい夫婦による色物芸である。「電動ノコギリの胴体切り」など、インチキと分かっていても思わず噴き出してしまった。歌手の松任谷由実さん(70)もショパンさんの大ファンで、自宅のパーティーに呼んだこともあったという。

 諸説あるが、彼らの芸が生まれたのは米軍キャンプを回っていた1957(昭和32)年ごろだそうだ。お祭りの見せ物小屋で見た「のぞきからくり」にヒントを得て、箱の中から両手を出してぬいぐるみを操ることになった。新婚時代、内職の必要に迫られて覚えた裁縫の腕を生かして、千重子さんがぬいぐるみや衣装などを作った。

「世界共通、誰もが笑える」

 それがショパンさんの自慢だった。東京・赤坂のナイトクラブに出演していたとき、何とあのフランク・シナトラ(1915~1998)から「アメリカに連れて帰りたい」とチップをもらったこともあったそうだ。

小さなパンをもじって「ショパン」

 テレビ出演は大嫌いで、ほとんど断った。「規制が多い」というのが理由で、芸能事務所や団体にも属さなかった。

「仕事の場に女房を出すとは」と陰口をたたかれることもあったが、「うちは人件費ゼロの家内制労働。信頼できるのは(妻の)チーちゃんだけ」と開き直った。

 私が初めて東京コミックショウの舞台を見たのは、巳(み)年の2001年7月8日。浅草寺の「ほおずき市」にあわせ、寄席・木馬亭で開かれた特別公演だった。「色物」と呼ばれる大衆芸は、落語や講談などに比べ低く見られがち。だが、「くだらない」「マンネリだ」とさんざん馬鹿にされた彼らの芸は、21世紀になっても「唯一無二の芸」としてしぶとく生き残っていた。

 久しぶりに聞いた「レッドスネーク、カモン!」の声。だが、箱の中にいたのは別の人間。千重子さんではなかった。

「チーちゃんはね、十分尽くしてくれた。背中を丸めながら道具を持ってくる姿を見たとき、ああ、もう無理かなと思った」

 楽屋でショパンさんが語った。

 さて、ここでショパンさんの経歴について振り返ろう。本名・猪狩誠二郎。1929(昭和4)年、宮大工の家の五男として東京・目黒で生まれた。浅草の喜劇界で活躍していた長兄・パン猪狩さん(1916~1986)の誘いで、戦後まもなく芸人に。「小さなパン」をもじって「ショパン」と名づけた。

 パンさんや妹の定子さんと組み、米軍キャンプやストリップ劇場を回る。55年には女子プロレス団体を設立したこともある。57年ごろエノケン(榎本健一=1904~1970)劇団にいた鯉口潤一さんと東京コミックブラザーズ(61年ごろに東京コミックショウと改称)を結成した。

 千恵子さんはこんな経歴だ。千葉・館山生まれ。高等女学校を中退後、東京のバレエ研究所に入団。ホテルのショーに出演していたときショパンさんと出会い、結婚。子育てが一段落した72年から夫婦コンビとして東京コミックショウを再結成したという。

 さて、ショパンさんであるが、私が出会った2001年ごろ、浅草はいまと違って外国人観光客も少なく、夕暮れになると人波が引き、参道の店が慌ただしくシャッターを下ろしていた。

「だいたいねえ、ひょうたん池がなくなってから浅草の衰退が始まったんだよ」

 ショパンさんは生前、池の周りにあった見せ物小屋や焼きそば屋を懐かしんでいた。夜のとばりが下りると、飢えた家族のために身を売る女性や浮浪者が集まった。危険でいかがわしく、淫靡なムードさえ満ちていた浅草。

 ショパンさんが棟割り長屋の自宅から市電を乗り継ぎ、劇場が立ち並ぶ浅草六区を初めて訪れたのは小学生のときだ。通りは人で埋まり、幟がはためいていた。「さあさあ、いらはい、いらはい」という呼び込みの声をよそに、金龍館という劇場の楽屋を訪ねた。兄のパン猪狩さんが出ていると聞き、金をもらいに行ったのだった。大酒飲みで失業状態だった父に、その金を渡した。

 ひょうたん池が埋め立てられた51年、浅草花月劇場で上演された「シミキンの拳闘王」に兄とともに出演。ボクシングショーを演じた。やがてテレビの時代が到来し、浅草で生計を立てていた芸人の多くが失業、浅草から離れた。

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