慶応大学が「ハーバード大学日本校」になる可能性があった――東大を逆転するための「仰天プラン」の内容とは
1858年(安政5年)、福澤諭吉が江戸に開いた蘭学塾から始まったとされる慶應義塾。設立当初は日本最先端を行く教育機関であったが、1877年(明治10年)に東京大学が設立されると、国費から手厚い財政支援を受ける東大の後塵を拝するようになる。
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苦境に陥った福澤諭吉が、東大を逆転するために考えたのが、なんと「慶應義塾をハーバードの日本分校とする」という驚きのプランであった。日本思想史研究者の尾原宏之さんの新刊『「反・東大」の思想史』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けする。
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福澤がハーバード大学総長に出した手紙
政治学者の小川原正道は、明治期の慶應義塾で学んだ人々が米国に留学し続け、福澤や塾の支援を受けながらハーバードやイェールなど東海岸の名門大学で「先端の学問」に専心したことを指摘した。福澤自身が二度幕末に渡米して以降肯定的な米国観を持ち、米国に人脈があったことが影響しているという(『慶應義塾の近代アメリカ留学生』)。
留学生を送りこむだけでなく、福澤はハーバード大学との強力な提携を模索していた。慶應義塾大学部開設と米国からの教師招聘は、そのことと密接に関わっている。米国から招かれたウィリアム・リスカム(文学)、ギャレット・ドロッパース(理財)、ジョン・ウィグモア(法学)の三人の主任教師は、いずれもハーバード大学総長のチャールズ・エリオットが選定し、推薦した人物である。エリオットは1869年から総長を務め、抜本的な教育改革によって現在にいたる同大学の基礎を作ったことで知られる(『慶應義塾史事典』)。
慶應義塾とハーバードとの関係は続き、1890年には大学部の池田成彬(しげあき)(のち三井財閥の指導者で大蔵大臣も務める)らを留学生として送り出しているほか、教師が帰国する際にはエリオットに後任の推薦を依頼している。
だが福澤の希望は、教師の推薦や派遣留学の次元にとどまるものではなかった。1889年、エリオットに宛てた福澤の書簡には以下の記述がある。
「次のようなことが可能にならないだろうか。すなわち、慶應義塾の教授陣を次第にハーバード卒業の人達で埋めてゆき、教科目や教授法をできるだけハーバードの組織や実際に近づけて行き、また試験法も同じく進めて行って、遂には学位試験にまでおよぼす、言葉をかえて言えば、我々の学校を、ある意味でハーバードの日本分校とする」(清岡暎一編・訳『慶應義塾大学部の誕生』)。
慶應義塾からハーバード大学へ
慶應義塾をハーバードの日本分校とする。これは非常に斬新な提言である。福澤自身、このプランの実現が大変な困難をともなうことはもちろんわかっている、と付言している。だが、なかなかに壮大な野望ではないだろうか。
福澤とエリオットとの間を取り持ったユニテリアン(キリスト教の教派)の宣教師アーサー・ナップは、慶應義塾を「帝国大学に次ぐ大教育機関であり、帝国大学には見られない多くの特長と強みを持つ学校」とエリオットに紹介した(同右)。
その慶應義塾が米国で一、二を争う名門ハーバードの日本分校となり、学生はハーバード出の教授陣からハーバードそのままの教育を受ける。米国東海岸の「本校」に正規入学し、卒業する機会を得る学生も飛躍的に増えるだろう。優秀な若者にとって非常に魅力的な進路になりうる。
「官」の威光を背景とする帝大に対し、慶應義塾は米国の名門大学と提携して対抗する。「官」の強い圧迫を跳ね返す方策として、考えうる中で最も強力ではないだろうか。もしこの夢が実現していれば、帝国大学とはまったく違ったタイプの知の権威が日本に登場した可能性さえある。
神学校と慶應義塾の合併構想
ハーバードがらみの学園強化策は、福澤が脳溢血で倒れる前年の1897(明治30)年頃にまた取り沙汰される。再来日した宣教師のナップが福澤を訪問、ハーバードとの提携や日本におけるユニテリアン神学校である先進学院と慶應義塾の合併案などについて話し合った。福澤はすでに老境に入っていたが、協議は5時間に及んだという(土屋博政『ユニテリアンと福澤諭吉』)。
「儒教主義」教育の批判者として知られる福澤は、三位一体説を否定し合理主義と寛容を重んじるユニテリアンに共感を寄せていたといわれる。新時代の日本社会の道徳を確立する上で役に立つと考えたからであろう。福澤は雑誌『ゆにてりあん』に寄稿した一文の中で、同派を「一派の宗教宗門」としてではなく、「一個人一家族の関係に至るまでも、之を網羅して善に向はしむる」ことを目的とする運動と理解している(「ユニテリアン雑誌に寄す」)。
先進学院の命名者は福澤であり、慶應義塾との合併は要するに慶應義塾に神学部を設立することを意味する。先進学院は、特定の教派の教理を教えるのではなく、さまざまな宗教との比較の中でキリスト教を客観的かつ学問的に教え、「諸宗教に共通する普遍的なもの」を探ることを目指していた(土屋前掲書)。
したがって福澤は、両校の合併は慶應義塾内にユニテリアン由来の比較宗教学部を作るようなものだと考えたのかもしれない。これもある意味でハーバード・モデルである。土屋博政は、福澤が「ハーヴァード大学の神学部に対応するもの」を考えていたと推測する。当時ハーバードは「ユニテリアンの本拠」と呼ばれ、その神学部もユニテリアンとの関わりが強かった(土屋前掲書、『慶應義塾百年史』)。
結局、ナップの失策やユニテリアン内部の問題もあり、福澤の希望は果たせなかった。だが、福澤は最晩年にいたってもハーバードとの連携や新学部構想などを通して、帝国大学とは異なる高等教育機関を模索していたことがわかる。
※本記事は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)に基づいて作成したものです。