マスコミが「市民運動」の言い分に乗っかる身もフタもない事情とは

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 なぜメディアは左傾化しがちなのか。元産経新聞記者の三枝玄太郎氏は、新著『メディアはなぜ左傾化するのか 産経記者受難記』の中で、自身の体験をもとに分析を試みている。前編(ライバルの朝日記者はこの前まで大学で教授を吊るし上げていた活動家だった 元産経記者が語る「メディアの左傾化」)でご紹介したのは、学生時代から筋金入りの「活動家」だった朝日新聞記者のエピソードだったが、こうした背景を持たなくても、ついついある種の偏った記事を書いてしまいがちになる事情があるのだという。三枝氏の新人時代の回想である(以下、同書をもとに再構成しました)

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記者クラブにやってくる市民団体はいつも同じ人

 僕が新人として1991年に配属された当時、静岡支局には、1日に何本もレクチャー、記者会見の類が入っていた。どこからか幹事社に連絡があり、幹事社の記者が「午後3時から原子力艦入港に反対する会のレクが入っていま~す」という感じで声をかけて、B5版ほどの用紙をホワイトボードに張る。あるいはどこかの労働組合が起こした、不当労働行為に関する地裁判決に対して控訴定期を決定した、と言ってはレクチャーあるいは記者会見が入る。

 僕もこのレクチャーは暇があれば出ていた。産経新聞ですら、明らかに共産党や社会党(当時)がバックにいるであろう団体の記者会見ですら好んで記事にしていたのだ。

 なぜなら日々の静岡県版は400~500行ほどの記事が必要であり、当時、産経は静岡支局に県警詰めが2人、県庁担当が3人いた。浜松にも支局があり、支局長以下2人、掛川、島田、清水、沼津、三島、熱海、伊東、下田に通信部があった。

 だが全部足しても現場に出られる記者は13人。通信部はほぼ全員が「特通さん」といって、一度はほかの新聞社などを定年になって再雇用されたお爺さん記者ばかりなので、それほど多くの原稿が出るわけではない。そんなわけで、夕方になっても原稿が集まらないということがよくあった。そんな支局にとって、バックが何であろうとわざわざ記者会見を開き、レクをやってくれる団体はありがたい存在だったのだ。

 もちろん、レクとは名ばかりで、いかに自分たちの請求を棄却した判決が不当だったか、ということをアジテートするのが常だった。最近だったらオスプレイ配備の反対運動あたりが、こうした団体の主戦場だろう。

 今でも静岡県警記者クラブが当時と同じルールで、自由に市民団体が立ち入れる状況だったなら、連日記者クラブに「市民団体」の人たちがそれこそ門前市をなしただろう。こうした人たちはある種の常連なので、記者とも顔なじみである。

 記者も記者クラブに寝転がっていても、レクの時間になれば市民団体の皆さんがやってきて、アジテートして、権力側の批判、悪口を言って帰っていく。それがその日の新聞に掲載され、テレビに放送されるわけだ。彼らも誰に教わったのかは知らないが、どこの地方でも記者クラブをレク漬けにしていたようだ。

 こうして当時の新聞記事、テレビのニュースは労せずして彼らの主張が掲載され、放送されるわけだ。

おなじみの「市民」たち

 ある日、朝日のNくん(注・前編に登場した元学生運動の活動家で三枝氏と同期入社の記者)に初老の女性が「あら~、Nさん、最近うちに来てくれないじゃない」と声をかけているのが目に入った。あれ? この人、どこかで見たな……と思ったらバイパス建設に反対する会の「市民」だった。それが別の日には「原子力艦の……」のレクにも来ていたりするわけだ。

 また別の日、廊下に背広姿の男が3~4人立っているのに気づいた。朝日のNくんが「おい、警察が来るところじゃない。市民がレクをしているんだ」と声を上げ、何人かの記者が不満の声を上げた。僕も後に続いた。

 思った通り、公安課の警察官だった。出席者の顔ぶれを確認していたのだった。記者クラブは公安警察の監視対象だったようで、たまに公安課の刑事がウロウロしていることがあった。

 当時、県警は静岡県庁に間借りする形になっていた。つまり庁舎管理権がなく、市民団体の出入りを拒む権限がなかった。これは警視庁や大阪府警を除けば、多くの道府県でも似たり寄ったりだったと思う。そこに公安警察官が監視に来たことに、抗議の声を上げる程度には当時の僕は、まだ左翼にシンパシーを感じていたということだろうか。

初めて書いた県版トップ記事

 さて、静岡支局に赴任して1カ月後に自転車で静岡市内の静岡中央署と静岡南署を回ることを許された。午前8時15分、当直明けの警察署に顔を出して「昨夜は何もありませんでしたか」と訊いて回るのだ。そして、一度、静岡県庁に間借りした例の静岡県警記者クラブに顔を出す。だが、1年生記者は長居できない。先輩の怖い目が光っているからだ。

 例の出席原稿(お手軽に取材できる記事)に最適な「市民団体のレク」も1年生はまず出られない。先輩の特権だからだ。これで先輩は出席原稿を書くことができる。

「いつまでここにいるんだ。早く署回りに行って来い」と言われるに決まっているし、事実、言われた。

 午前9時半には静岡中央署の4階から順に下がっていき、最後は1階の警務課や地域課(1993年までは外勤課といっていた)を回って昼回りは終わり。それが終わると、その日の出席原稿を探す。とはいってもついこの間まで、悠長に学生生活を過ごしていた身の僕がスラスラ記事を出せるわけもなく、はじめの2週間は全く記事が書けなかった。

 先輩は記者クラブにいても、市民団体の有難いレクチャー、会見が待っている。出席原稿は確保できる。ただ、1年坊主にそんな役得が回ってくるはずもなく、日々、動物園に行っては、象に鼻で顔を撫でまわされながら象の水浴びの写真を撮って「暑い! 静岡市が35度」といった「お天気記事」を書いたり、市民ホールで催されている展示会を20行ほどの小さな記事にして、お茶を濁す術を覚えるようになった。

 ある日、静岡市役所の玄関わきで展示会が催されていた。70代くらいのお爺さんの何の変哲もない展示会だった。題名は「苦難のシベリア抑留の日々」といったものだったと思う。

 小和田さんという、そのお爺さんは絵を指さしながら「厳寒のシベリアで一人、また一人と飢えて死んでいきました」と淡々と話してくれた。

 それを30行ほどの街ダネコーナー用に出稿した。夕方、警察署に行って防犯少年課長と雑談していると、ポケットベルが鳴った。電話を返すと、支局の次長だった。

「急いで支局に来い」という。

 何か、あの展覧会の原稿でマズいことでも書いたのか、と不安になったが、当然放っておけるはずもなく、重い足取りで向かった。

 次長は難しい顔をして原稿を処理している。「何かマズいことでもありましたか」と訊くと、ワープロに顔を向けたまま、「お前、何で30行しか書かなかった」と言った。

「え? 展示会ですから」と言ったら、雷が落ちた。とはいっても、次長は理不尽な怒り方をする人ではない。相変わらず小難しい顔をして「お前はシベリア抑留を何だと心得ているんだ」と言った。

 思わず「は?」と声が出てしまった。次長は「書き直せ」と言った。「すみません」と謝ったら、「120行くらい書いてこい。お前、少し勉強しろ」とだけ言って、また難しい顔に戻って原稿を睨(にら)んでいた。

 あのお年寄りの展示会は県版トップ記事にするという。「そういえば、息子さんは静岡大学の教授だって言ってましたよ」と言ったら、また怒られた。

「誰だ、それは。聞いてない? なぜ聞かないんだ。すぐ聞いて、それも原稿に織り込め」

 展示会の主の小和田さんは、日本中世史の歴史学者として高名な小和田哲男・静岡大教授の父だった。NHKの大河ドラマの時代考証を手がけ、「そのとき歴史が動いた」などの番組にも出演されている、あの小和田教授だ。

「自分の書いた原稿をよく見ておけ」と次長は言った。夜の9時ごろにファクスに流れてきたゲラ刷りを眺めていた。産経新聞に入って初めての県版トップ記事だった。嬉しくないといえばうそになるが、それよりもこんな体たらくで大丈夫だろうか、という不安の方が先に立った。

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 前編記事(ライバルの朝日記者はこの前まで大学で教授を吊るし上げていた活動家だった 元産経記者が語る「メディアの左傾化」)では、N記者の学生時代の「武勇伝」と新聞社を辞めた後の意外な就職先などについてお伝えしている。

三枝玄太郎(さいぐさげんたろう)
1967(昭和42)年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1991年、産経新聞社入社。警視庁、国税庁、国土交通省などを担当。2019年に退職し、フリーライターに。著書に『三度のメシより事件が好きな元新聞記者が教える 事件報道の裏側』『十九歳の無念 須藤正和さんリンチ殺人事件』など。

デイリー新潮編集部

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