【特別読物】「救うこと、救われること」(1) 長野智子さん
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家族にも必ず別れの時は訪れます。長野智子さんの場合は、92歳のお母様が自宅で倒れたことがきっかけでした。長野さんはお母様の願いを承けて、在宅での看取りを決意されます。
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7歳の時に父が亡くなり、そのとき私が最初に感じたことは、母がいなくなったら生きていけないという生物としての危機感でした。当時は、シングルマザーという言葉もなく、母子家庭や片親の子供も周りにいませんでした。子供ながらに大変なことになったと察したのだと思います。
活発な母、おっとりした娘
母は、女学校時代、優等生で、運動も万能、足も速くて、リレーの選手でした。ところが、娘の私は、太り気味で、足が遅く、勉強も出来なくて、性格はのんびり屋。運動会でも活躍しないから、「私の子じゃない」と、母はいつも怒っていました。私のことがもどかしかったんです。
真面目で一生懸命な人でしたね。兄が結婚してからは、我が家は祖母と母と私の女3人暮しでしたが、母は働きながら、祖母の介護も一人でしていました。そんな母に頼り切っていましたが、いつか楽にさせてあげたいという思いは、ずっと私の中にありました。
中学生になると私が変わりました。痩せて背が伸び、勉強も出来るようになったんです。足も速くなって、どんどん母に近づいていきました。中学3年生の保護者面談で担任の先生に「国立大学を狙えますよ」と言われて、母はびっくり仰天。それ以降、何も言わなくなりましたね。すべて私に任せるという感じになりました。
運命の偶然でアナウンサーに
大学時代、文化放送の「ミスDJリクエストパレード」という深夜番組のDJをしたんです。ギャラがいいのが魅力でしたが、話は下手だしディレクターに叱られるしで、半年でやめてしまいました。
ところが就職の時に私を散々叱っていたディレクターに偶然の再会。アナウンサーに向いていると薦められたんです。驚きましたが、それで思い直し、調べたら、フジテレビの試験だけが残っていたんです。教職に就くつもりでしたから、アナウンサーになったのは運命の偶然としかいえません。
「延命治療しないで」と願った母
フジを退職してからは、ニューヨーク大学の大学院で学び、帰国後、報道アナウンサーとして復帰し、キャリアを続けてきました。母とは同じ敷地内の別棟のマンションにそれぞれ暮らしながら、一緒に買い物したり、食事したりと、仲良く過ごしてきました。
90代での一人暮らしは大変だったはずですが、母は干渉されるのが嫌いで、ヘルパーさんが来るのも施設に入るのもイヤというタイプ。「病院に連れて行かないで」、「延命治療しないで」「あなたの世話にはならない」が口癖でした。
2021年に92歳になっても、一人で身の回りのことをしていました。時々一緒に外食もしていたんです。でもあるとき腰を悪くして、そこからガクッときたように思います。そのときに思い立って地域包括支援センターに相談に行き、介護認定してもらいました。
動けなくなったのはその一ヶ月後でした。母には毎朝電話していたのですが、出ないのです。心配して行ってみたら応接間で倒れていました。意識はあったので、救急車をと一瞬思いましたが、「病院に連れて行かないで」「延命治療しないで」という母の願いが思い出され、それで近くのかかりつけ医など開業医に連絡したのです。しかし、すべて断られました。往診はしないというのです。
万事休すと追い詰められたとき、介護認定でお世話になった地域包括支援センターの担当者が頭に浮かび、相談しました。すぐに往診専門のドクターを紹介してくれて、夕方に来てもらえたのです。診察の結果、老衰で一ヶ月もつかどうかと言われました。お母様は心臓は強いけれど腎臓が弱っています、と。
突然のことで驚きましたが、ならば在宅で母を看取ろうと決めました。仕事もありましたが、週にI度の往診と週2回のヘルパーさんの訪問をお願いし、私のワンオペ介護が始まりました。
少しずつ閉じていく生
食事を作り、水を飲ませようとしてみるのですが、食べられたのは最初の半月くらい。ひとつひとつ拒絶していくというか、生きるための術を閉じていくんです。これが老衰というものなのだと教えてもらいました。
最初は意識もあったし、トイレに立とうとするけれど、それも出来なくなります。水も飲まなくなり、時々唇を濡らしてあげることしかできない。意識も遠くなっていきます。
弱くなっていく息づかいを感じながら、私は母の手をずっと握っていました。母の最期に静かに向き合いながら、陽が昇り暮れていく日常の何気ない風景が限りなく美しく感じられました。母の願いを承けて送ることができ、私は救われました。母は私に世話をかけちゃったと悔しがっているかも。
でも、本当にかけがえのない時間だったなと思います。
■提供:真如苑