元TBS・海保知里アナ TBS最終面接で役員がざわつく なぜか「『すいません』と謝ったりしちゃって……笑」
一浪を経て無事、大学へ
一浪を経て、無事、大学に入学。将来は「リポーターになりたい」「ラジオで働きたい」と思うようになった。反抗期に、深夜ラジオに支えられたからだ。
「親に勉強すると言って、ずっとラジオを聞いていました。福山雅治さんのオールナイトニッポンとか好きでした。そうした中で、いろんな人に話を聞けるリポーターって楽しいかもって、思うようになったんです」
大学では放送研究会に所属。ラジオ番組の制作 をする中、街頭インタビューをして、編集をして、放送することの楽しさを知った。途中、アメリカの大学への編入を考え、英検1級を取ったりもしたが、編入計画は途中で頓挫。サークル活動に没頭する中、就職活動に入った。ラジオのリポーターを視野に入れ、アナウンススクールに通い始めたという。
「最初、アナウンサーはただ原稿を読むだけと思っていたんです。でも、スクールに通って、よく調べたら、仕事の内容が思っていたのと全然違っていました。『COUNT DOWN TV』のナレーションも、アナウンサーがやっていることがわかって、こんなこともできるんだと驚きました。当時、TBSテレビ『おはようクジラ』では小林豊さんと小島慶子さんがすごく生き生きとリポートをされていた。ラジオもテレビも両方できるのはTBS(民放以外だとNHK)だったので、第1志望にしました」
テレビ局を中心に始めた就職活動。サークルでは最終的に代表を務め、英語の資格もあったため、書類審査はどこも通過したが、面接試験で次々に落とされた。唯一、最終面接までいったのがTBSだった。
「私が最後の役員面接に行ったら、『どうしたの、大丈夫か』みたいな感じで、役員の方が少しざわついていたんです。どうやら、田舎っぽい子がきたことにびっくりしたみたいでした。私も『どうして最後まで残っているのかよくわかっておらず、すいません』と謝ったりしちゃって……笑」
最終面接まで残った女性は4人。同期となる豊田綾乃アナは「アイドルのような雰囲気」だったという。あとの2人も、背が高くモデル事務所に所属していそうな華やかさがあった。そんな中、海保さんは持ち前の明るいキャラクターから、終始、笑いの絶えない面接となり、内定を勝ち取った。
自分の無力さに愕然
アナウンサー試験を受けることについて、「そんな恐ろしい世界に行ったらどうなるかわからない」と猛反対した両親も、最終的には「これもご縁だし」ということで、了承してくれたという。
念願だったアナウンサー。「昭和の香りが残る」テレビ局で、最初は自分の無力さに愕然とした。
「入社当時は、こんな即戦力になれない人を雇って、会社は大丈夫なんだろうかって、そちらのほうが心配で申し訳ない気持ちでした」
少しおっちょこちょいだが、飾らない人柄が功を奏したのか、周囲は温かく見守ってくれた。先輩のアドバイスに素直に従い、頑張るうちにTBSの看板番組を任されるようになる。インタビュー第3回に続く。
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