渥美清との深い友情、お揃いの位牌も…寅さんの親友役、喜劇役者「関敬六」の生き方

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日本最北の地に届いた訃報

 私が関さんとの親交を深めたのもそのころだ。新聞記者生活の中で初めて上梓した「東京下町」(創森社)の出版パーティー(2003年9月)。会場となったグランドキャバレー「北千住 ハリウッド」にも特別ゲストとして出演してくれた。

 だが、糖尿病が悪化し、2005年から入退院を繰り返した。精密検査の結果、正常な血液が作れなくなる病気「骨髄異形成症候群」と診断された。05年春に出演した浅草・木馬亭の舞台「お笑い浅草21世紀」が最後の仕事になった。病院では高熱に浮かされながらも、奥さんに向かって「靴を履かせろ」と話しかけたという。

「師匠が先ほど亡くなりました」

 06年8月23日午前3時すぎ、弟子の関遊六(ゆうろく=50)さんから携帯電話に連絡が入った。死因は肺炎だった。

 当時、私は日本最北の北海道稚内市にあった朝日新聞稚内支局に支局長として勤務していたが、この連絡のおかげで関さんの訃報を夕刊社会面の特ダネで報じることができた。

《関敬六さん死去 寅さんの親友役、浅草舞台史彩る》

 他の一般紙もスポーツ紙も通信社もテレビ局もキャッチできなかった訃報だけに、「どうして朝日新聞だけが報じることができたのだろう」と各社の間で不思議がられたという。

 遊六さんによると、あのとき携帯電話で連絡したのは、芸人の谷幹一さん(1932~2007)と橋達也さん、そして私の3人だけだった。日本最北の地に届いた訃報。あれは関さんから私へのプレゼントだったのではないか。

 次回は、「ゲゲゲの鬼太郎」など数々の妖怪漫画を手がけた水木しげるさん(1922~2015)。「妖怪の棲めない国はダメになる」と言っていた水木さんの死生観に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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