【剣劇役者・浅香光代】サッチー・ミッチー騒動から四半世紀…気風が良くて義理堅く、情の人でもあった生き様とは

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「日本の男は女の抱き方が下手」

 さて、女が男に扮してチャンバラをする女剣劇について、もう少し述べておきたい。戦火が拡大し言論統制が強まった1939(昭和14)年ごろから人気を呼んだ女剣劇は、男中心の社会に対する皮肉や風刺を感じさせた。浅草では大江美智子(1910~1939)、不二洋子(1912~1980)、中野弘子(1922~1996)が人気を得ており、戦後の女剣劇を支えたのが浅香さんだった。

 その浅香さんについて興味深い論考がある。浅草に育った作家や俳優、芸人、歌手たちの人生を情感豊かに綴ったエッセー集「浅草のひと 久保田万太郎から渥美清まで」(東京新聞出版局)の著者・鈴木としおさんが書いている。

《彼女(註・浅香光代)の鍛え上げた芸の力が彼女の人気を支えているのはいうまでもないが、いま一つ、見落とすことができないのは天性の朗質ともいうべき彼女の屈託のない人柄である。これは彼女の余人以上の生い立ちの苦労、血のにじむ思いの修業の積み重ね、それに反するもって生まれた陽性の芝居、容姿と素質があったればこそと思う》

 そんな浅香さんが、地元の台東区から浅草芸能大賞を贈られたのは1987年だった。主な受賞理由は「女剣劇の第一人者で、浅草に生まれ育ち、身につけた芸境は天下一品。舞台の他テレビにも出演。さらに自己研鑽のため浅香ミニ劇場を主宰し、年2回の定期公演をするなど、常に前向きの一貫した姿勢をとっている」というものだった。

 受賞の喜びを「浅草で育った私にとっては、ほかのどんな賞よりうれしい」と語った。その言葉に偽りはなかった。浅香さんは地元浅草では様々な活動に奉仕。本当にまめで、警察や消防の1日署長を務めたり、自分のミニ劇場にお年寄りを無料で招待したりするなどきめ細かい心遣いをした。

 その一方、前述した野村沙知代さんとの「ミッチー・サッチー騒動」のときと同じように、ピリリと辛口や風刺を効かせたコメントは秀逸だった。「余白を語る」と題した朝日新聞のインタビューに、こんなことを言っていた。

《日本の男は女の抱き方がへたですね。私は舞台で男役をやっているからよくわかるんだね。この前、新幹線のホームで若い男女が抱き合ってキスしていた。それもうしろ手したままね。あんなんならキスするより、小指をおたがいにからませての愛情表現のほうがいいな。抱き方の美学がなっていませんよ、ただべたべたするだけじゃあね》(朝日新聞1991年4月5日夕刊文化面)

「年をとるほど恋愛をしていたい」とも言っていた浅香さん。「いくつになっても抱いてみたい女でありたいわ」とまで公言していた。

《80歳すぎたって、おかねがいくらかかってもきれいになりたいね。色気がなければ舞台もつとまりませんよ。恋愛や男友達はとしをとるほど必要なんじゃない。それがなければ人生つまらないじゃないの》(同上)

 舞台ではジャズのリズムで立ち回りをしたこともあった。歌手の淡谷のり子さん(1907~1999)が見て、「流行りのアイドル歌手よりうまい」と褒めてくれたらしい。

 89年、当時の首相・宇野宗佑氏(1922~1998)の愛人スキャンダルが世間を騒がせたとき、「女が悪い。影の女なら表へ出てくるな。だいたい政治家(男)はみんな嘘つきだ。浮気のできない男なんて駄目」と言っていた。もしも、いま同じような発言をしたら、あちこちから批判が噴出するに違いない。だが「あたしゃ、許さないよ!」と持論を展開するのが浅香さん。完全にアウトな発言でも、曲げることはしないだろう。
 
 次回は、9年前、54歳で早世した女優・歌手の川島なお美さん(1960~2015)。青山学院大学在学中に芸能界デビューし、女子大生タレントの先駆けとなった川島さんの生涯をたどる。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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