「ぼくの車椅子を押してくれるかい?」ピート・ハミルがささやいた、意外すぎるプロポーズの言葉

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監獄に放り込まれ…

 命があっただけでも幸運だった。罪状は私有財産の損壊(娼家のドアのこと)のほか、公務執行妨害、殴打による傷害など。逮捕されてから監獄に放り込まれて釈放されるまでの4日間、薄暗い雑居房や悪名高い市立刑務所内の独房、さらに雑居房の大部屋に繋がれた経緯は彼の語る武勇伝のなかでも際立っていた。
 
「あの時、メキシコ・シティの独房で読むものが何もなかったから、学生証明書を読んでいたんだよ」
 
 大人数の雑居房では食べ物が支給されなかった。同じ牢に繋がれた粗末な服のメキシコ人たちのもとには家族やガールフレンドが毎日、差し入れにきていた。ピートにはそんな人もいなかったので、同じ牢のメキシコ人たちが自分たちの分をわけてくれた。本当に気の良い人たちでますます彼らが好きになったとピートの話は続いた。
 
 毎月110ドルの奨学金は遅れがちに支給され、そこから授業料、部屋代、食費などを払わなくてはならなかった。事件の後には保釈金や弁護士費用などもかさんだが、このときの経験は21歳のピートの内面に本質的な変化をもたらした。
 
「あの頃、短編小説と詩を書き始めたんだ……」
 
 こう語るときの彼はいつも50年代のメキシコに思いを馳せるような遠い目つきをした。
 
 結局、ピートは保釈中という身分を無視して友人のクルマで国境を目指すことになる。運良く国境をくぐり抜け、そのまままっすぐニューヨークへ逃げ帰ってきた。パリに代わる「メキシコの夢」は、こうしてたった9カ月で終わった。

離れ離れの日々

 それから30年経った1986年10月、ピートはロングアイランドの家を売り払って家財道具をすべて倉庫に入れ、メキシコへ旅立った。
 
 ようやくわたしの元へ帰ってきたと思ったら、今度はメキシコへ行ってしまうなんて……。しかし、わたしのほうは日本版が創刊され、仕事はますます煩雑をきわめた。
 
 東京から会社のお偉いさんや仕事関係者が頻繁に立ち寄ったし、毎日のように知り合いが訪ねてきた。作家の中上健次さんが少し前からニューヨークに住むようになっていて、時々、オフィスに寄ってくれた。安部公房さんが数日、「ニューヨーク・ペン・クラブ」の招待で滞在していたこともあった。
 
 11月に入ってピートに電話すると、いつもの元気な声でメキシコにいるのもあと3、4カ月になりそうだといってきた。現地に行ってみたら、だいぶ話が違っていたらしい。彼らしくあっさり引き上げることにしたという。
 
 それなら来年の2月か3月には帰ってくるのかと聞いてみると、「イエス!」というではないか。とはいえ、アメリカ人の若い記者を十数名雇い、チームを組んで英字新聞をつくっているから、そうは簡単に辞めることはできないかもしれないと付け加えた。
 
 クリスマスにはそちらへ行こうかというと、「いや、ぼくが一時帰国することになると思う。どこか中間地点で会うのもいいね」。

「一生、君に誠実であることを誓う」

 クリスマスまであと数日という金曜日、ピートから突然、電話があった。ニューヨークに戻ってきているので、翌日の土曜朝、一緒に朝食を取ろうという。締め切りの土曜日は朝から忙しく、夜遅くならないと時間が空かないと答えると、夜11時にマディソン街までクルマで会いにくるといった。
 
 ニューヨークの街はクリスマスを控え、夜中まで熱気と興奮に包まれていた。11時にマディソン街に出て待っていたが、ダットサンは見当たらない。仕方なく14階のオフィスへ戻り、少ししてまた降りていくと、車が停まっていた。助手席のドアを開けて乗り込むと、「ああ、びっくりした」とピートは大声を上げた。例によって本に熱中していたらしい。
 
「元気そうだね。どうしていたかい?」
 
 と声をかけてきたピートは何だか一回り大きくなったようで、メキシコ料理の食べ過ぎみたいな顔をしていたが、目の前に彼がいるというのが俄かに信じられなかった。本当に来年には帰ってくるのかと聞いてみると、
 
「そう、帰ってくるよ。帰ってきたら結婚しよう!」
 
 まさか、そんなつもりがあったなんて……。あまりにも簡単にプロポーズの言葉を投げかけてきたが、この人は本気なのだろうか。
 
「一緒に住んで一緒に旅しよう。日本に6カ月住むこともあるかもしれないし、アイルランドへ行くかもしれない。大きな家を買って本をたくさん置いて……ぼくが結婚する相手は君しかいない。それにふたりの娘も薦めるんだ。エイジュリンがスイスに向かう時、フキコに絶対連絡するようにいって出かけていったんだよ」
 
 わたしは呆然とするしかなかった。
 
「ぼくは本気なんだ。これから死ぬまで君のことを愛する。これから一生、君に誠実(フェイスフル)であることを誓うよ。ぼくの車椅子を押してくれるかい?」
 
 じっと目を見つめながら、真剣な表情でいった。
 
 この言葉を信じても良いのだろうか。彼の気持ちは本当に変わることがないのか。恐ろしいけれど、もう一度だけ、ピートを信じてみようか。
 
 クリスマス・イヴの夜、ピートはメキシコへ帰り、わたしは仕事が休みに入った翌25日にメキシコ・シティへ発った。

死がふたりを分かつまで

 翌年、ピートは約束した通り、2月にニューヨークへ帰ってきた。メキシコ滞在はもう少し長くなりそうだといい始めていたが、メキシコ国立自治大学の学生ストの報道をめぐって経営者と編集方針が大きく食い違い、13名の記者とともにストライキに突入した。
 
 結局、話し合いは平行線を辿るばかりで双方歩み寄る余地もなく、ピートは辞表を出してメキシコを後にした。わたしもニューズウィーク日本版の仕事をちょうど3年で辞めることに決めた。
 
 わたしたちが結婚したのは1987年5月23日、ピートの友達で先輩に当たるコラムニストのジミー・ブレズリンの自宅に家族や友人が100名以上集まってくれた。セントラル・パークに近い瀟洒(しょうしゃ)なアパートにはわたしの両親も東京から駆けつけてくれた。馴染みのお寿司屋さんが特別出張して目の前で握ってくれたのは大好評だった。

 友人のチェロ奏者数名がウエディング・マーチを奏でてくれるなか、ピートの親しいミルトン・モラン判事の前に歩み出たわたしたちは、それぞれ伴侶となるかを聞かれ、「イエス」と答え、指輪を交換した。
 
「良い時も悪い時も、病気の時も健康な時も、死がふたりを分かつまで、人生を共にするのです」
 
 響くような低音でいった判事のその声を、今でもよく覚えている。

「死がふたりを分かつまで」――それは思ったほど長い歳月ではなかった。

(第7回に続く)

『アローン・アゲイン 最愛の夫ピート・ハミルをなくして』より一部抜粋・再編集。

青木冨貴子(アオキ・フキコ)
1948(昭和23)年東京生まれ。作家。1984年渡米し、「ニューズウィーク日本版」ニューヨーク支局長を3年間務める。1987年作家のピート・ハミル氏と結婚。著書に『ライカでグッドバイ――カメラマン沢田教一が撃たれた日』『たまらなく日本人』『ニューヨーカーズ』『目撃 アメリカ崩壊』『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く―』『昭和天皇とワシントンを結んだ男――「パケナム日記」が語る日本占領』『GHQと戦った女 沢田美喜』など。ニューヨーク在住。

デイリー新潮編集部

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