ピート・ハミルからの思いがけない手紙――「痛みを与えてしまったことを謝りたい」
映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」(1977年)の原作者として広く知られ、アメリカでは反骨を貫くジャーナリストとして、またコラムニスト、小説家として一世を風靡したピート・ハミルさん。かつてはプレイボーイとまで呼ばれた人だった。
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一方、「ニューズウィーク日本版」創刊のためニューヨーク支局で働くことになった青木冨貴子さん。ピートさんとの仲は次第に深まり、狂おしいほどに好きだと思うようになるが、彼からの連絡は次第に滞っていった。ある日、家路をたどりながら「いっそのこと潔く別れてしまおう」と自らに言い聞かせたところ――。
※本記事は、青木冨貴子氏による最新作『アローン・アゲイン 最愛の夫ピート・ハミルをなくして』より一部を抜粋・再編集し、第10回にわたってお届けします。
ニューズウィーク日本版の創刊に奔走
ニューヨークに来た1984年8月頃から、わたしは日記をつけていた。黒い革表紙のA4サイズのノートでその日に起こったことや会った人、自分の考えや思いの丈を数日おきに記していた。ピートとの別れをはっきり意識した翌年春の頃のページを繰って見ると、ほとんど仕事のことばかりが記されている。
確かにあの頃、ニューズウィーク日本版のテスト版づくりに翻弄されていた。一時帰国していた4月末に出来上がったテスト版がようやく良い仕上がりになってニューズウィーク側と合意に至り、創刊に向けて走り出したためにますます多忙になった。
週刊誌の仕事は火曜朝の会議から始まり、特別のことがない限り、土曜夜、実際には日曜の深夜1~2時までかかった。ハイヤーでアパートまで帰り、刷り上がったばかりのニューヨーク・タイムズ日曜版を抱えて西71丁目で深夜営業しているイタリアンの店へ行って、ピザを食べながら1週間が無事終わったと胸を撫で下ろす。そんな日々が続いていた。
5月のメモリアル・デイ、7月の独立記念日など愛国心いっぱいのアメリカの祝日を初めて経験して考えたことが日記には記されている。ピートのことは一言も出てこないところを見ると、すっかり自分の頭の外へ追い払おうとしていたのだろう。
7月7日に37歳の誕生日を迎えた。本を読んだり、自分の原稿を書き始めようとしたりするうち、ニューヨークへ住むようになってほぼ1年近くになったとある。嵐のような日々、はじめの半年は無我夢中で過ごし、冬からの長かった半年が綿々と綴られてある。
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