「こんなに人気者になるとは世の中不思議なもんだよ」、終の棲家は新宿の都営住宅…“金網デスマッチの鬼”と呼ばれた「ラッシャー木村」の実像

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 前回、紹介したアントニオ猪木(1943~2022)の好敵手でした。試合はどれも名勝負。見事にヒールを演じたため、ファンの罵声を浴び、モノを投げ込まれながらも試合を続けました。ラッシャー木村(1941~2010)。晩年、その人柄が知られるようになると、誰もが木村の素顔を知りたがりました。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は知られざる「金網デスマッチの鬼」の素顔です。

テトラポットの美学

 生き方は不器用でも温かさを秘めた人だった。それも電気ストーブのような温かさではなく、寒い冬の日、お母さんがかじかんだ手をじっと握ってくれたときのような、じんわりと体の芯から伝わる温かさ、と言っていいだろう。

 黒のロングタイツ姿。国際プロレスのエースとして「金網デスマッチの鬼」の異名をとり、凄惨な流血試合を繰り広げたラッシャー木村(本名・木村政雄)。頑強な肉体を生かすためのデスマッチだったというが、コンプライアンスがうるさい現代では絶対に無理な試合形式だった。

 実は私は高校時代に木村に会っている。当時、プロレス研究会を主宰しており、文化祭で「プロレスと現代社会」と題した真面目な企画を考えていた。その際、全日本でも新日本でもない、第3のプロレス団体を率いる木村の話を聞きたいと思い、東京・後楽園ホールの試合会場まで駆けつけたのである。

 選手控室でわずか数分。しかも、マスコミでもない高校生の取材に応じてくれたことは、とても有り難かった。「金網デスマッチの鬼」なので怖い人かと思ったが、とても温厚な人だった。

 だが、あまりにもしゃべらないので苦労した。「黒タイツが力道山に似ていますね」と聞いたら、「そうかい」と不愉快そうな顔をしたのを覚えている。

 話を戻す。1981年、国際プロレスは解散。木村は一時、引退も考えたというが、アニマル浜口(76)らとともに「国際軍団」」を結成。新日本プロレスのリングに上がり、悪役に徹してアントニオ猪木らと勝負を繰り広げた。

 猪木が波状攻撃で繰り出すナックルパンチを、耐えて耐えて耐え抜く姿がテレビで放送されたことがあったが、当時、「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日)の実況を担当した古舘伊知郎(69)はその姿を見て「テトラポットの美学」と称賛した。耐え抜く姿こそ、木村の真骨頂だった。

「どんなに酒を飲んでも愚痴や悪口を言わない」

 84年、新天地を求め全日本プロレスに移籍。恐ろしいまでの怪力の持ち主のうえ、相撲で鍛えた下地を合わせると、ジャイアント馬場(1938~1999)や猪木よりも強いのではないかと言われたが、地味なファイトだっただけに次第に影が薄くなる。

 そんなとき、反転攻勢を掛けるかのように、木村の人気が再燃する。ユニークな「マイク・パフォーマンス」のおかげである。

 そもそものきっかけは、81年9月23日、東京・田園コロシアム。新日本プロレスのリングに浜口を連れて現れた木村は、マイクを向けられると決意表明に先立って「こんばんは」と丁寧に挨拶をした。「新日本vs.国際」という団体対決につきものの殺伐としたピリピリとした雰囲気に会場は包まれていたのに、この「こんばんは」発言は観客を拍子抜けさせ、失笑すら買った。

 だが、これだけなら大騒ぎにならなかっただろう。あまりにもおかしかったのか、当時、ビートたけし(77)が「こんばんは、ラッシャー木村です」とネタにしたこともあり、お笑いのネタとして世間に広まってしまった。「金網デスマッチの鬼」が「マイク・パフォーマンスの木村」となった瞬間でもある。

 のちに私が浜口から聞いた話では「こんばんは」というのは、素の木村そのもの。初めての新日本プロレスのリング。しかも、大勢のファンが詰めかけているだけに、「まずは挨拶をしないといけない」と思ったのだろう。朴訥で愚直で誠実な木村の性格がにじんでいた「こんばんは」発言だった。

 いずれにしても、昭和から平成を駆け抜けた名物レスラーだったと言えることは間違いない。マイク・パフォーマンスについては後述するが、UWFや全日本プロレスに所属したあとの2000年には、三沢光晴(1962~2009)が旗揚げしたプロレス団体「ノア」に参戦。61歳まで活躍したが、脳梗塞による体調不良を理由に療養に入る。

「リハビリしていましたが、思うようにいかず、これ以上やると会社やファンの皆さまに迷惑がかかる」

 と2004年にビデオ映像で引退を表明。車椅子生活となってからは、かつての仲間とも会わなくなったという。

「馬場さんや猪木さんに対抗するため、必死だったんだろうね」

 かつて仲間だったグレート小鹿(81)はそう話していた。衰えた姿を見せたくないという美学だったのかもしれない。

 終の住処となったのは、新宿区内の都営住宅だった。誰もが「あのラッシャー木村」とは気づかなかったという。馬場や猪木の最期と比べると、寂しい言といえば寂しいが、木村らしい生涯だった。2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため都内の病院で死去。68歳だった。木村が所属していたノアは、富山大会で追悼の10カウントゴングを鳴らし冥福を祈った。

 没後、私はアニマル浜口に会いに行った。

「木村さんは、どんなに酒を飲んでも愚痴や悪口を言ったことがなかった。どっしりと構え、静かに飲んでいたね」

 華やかなネオン街より、ひっそりとした路地裏を愛した人だったという。国際プロレスの後輩にあたる浜口は、東京・浅草の自宅で古いアルバムを見せてくれた。大きな体を前かがみにしながら木村がカラオケでよく歌ったのが、森繁久彌(1913~2009)の「銀座の雀」だったという。

 ♪たとえどんな人間だって
  心の故郷があるのさ……

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