出会いの時に「大地が動いた」――二人の作家、ピート・ハミルと青木冨貴子の運命的な出会い

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 映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」(1977年)で描かれた夫婦愛に感動した日本人は多い。この映画の原作となったのは、アメリカでは反骨を貫くジャーナリストとして、またコラムニスト、小説家として一世を風靡したピート・ハミルさんの記事だ。

 そのピートさんの結婚相手は13歳年下の日本人女性。作家の青木冨貴子さんである。

 ニ人の出会いは運命的なものだった。来日中の彼にフリーランスの取材記者としてインタビューをしていたのが青木さん。そのとき、ある「事件」が起きて――。

※本記事は、青木冨貴子氏による最新作『アローン・アゲイン 最愛の夫ピート・ハミルをなくして』より一部を抜粋・再編集し、第10回にわたってお届けします。

二人が出会ったその日に「大地が動いた」

 なぜ、あの日に地震が起こったのだろうか。

 1984年3月6日、東京丸の内のパレスホテル1階にある広いラウンジでピート・ハミルにインタビューしている最中のことだった。

 振り子のような横揺れが始まり、ラウンジ内の人たちも一斉に立ち上がった。向かいに座るアメリカ人作家は、ほとんど地震のないニューヨークから来ている。どう反応するだろうか。わたしはかなり冷静に観察していた気がする。

 それから3年後にわたしたちは結婚することになるのだが、

「どうやってフキコと知り合ったのか?」

 と訊かれるたびに(そう訊かれることは実に多かった)、

「なんと大地が動いたんだよ」

 と答え、意味ありげに嬉しそうな顔をして、

「だから、ぼくはフキコを抱えて外に連れ出し、大丈夫だよといって安心させたんだ」

 というのだった。

 とんでもない。わたしは初めて彼に会ってインタビューを始めたところだったのだ。地震が起こったのは17分後、あとで調べてみると震度4の結構大きな地震だった。揺れがおさまるのを待ってインタビューを続けた。

「戦争はドラッグみたいなものさ」

 彼は、わたしが持参した2冊の自著『ライカでグッドバイ――カメラマン沢田教一が撃たれた日』と『アメリアを探せ――甦る女流飛行家伝説』を手にとってじっくり眺めてから、「ぼくの友達のシャーリー・マクレーンが長いこと、アメリア・イヤハートの映画を作りたいといっていたので、台本を書こうとしたことがあったよ」といった。

『アメリアを探せ』は、太平洋に忽然と消えたアメリカの女流飛行家アメリア・イヤハート失踪の謎を追った本だった。

「それはいつのことですか」

「はっきりしないが、かれこれ10年くらい前だろうね。彼女はもうアメリアの役を演じるのに年を取りすぎただろう」

「ロザリンド・ラッセルの映画がありましたね」

「あれはひどい映画だ。ヒステリカルで笑っちゃうよ。たしかアメリアは日本軍に捕まって、最後には雲のなかに消えていくんじゃなかったかな」

 ピート・ハミルの話す言葉はわかりやすく、わたしのしどろもどろの英語もよく理解してくれた。初めから打ち解けた感じで話が弾んだので、ベトナムへ行って戦争取材をしたか尋ねると、66年と67年の2回、計10カ月を特派員として従軍したと答えた。

「戦争はドラッグみたいなものさ」

 こういってニヤッと笑顔を見せると、

「でも、ぼくはいわゆる戦争志向のライターになりたくなかった。つまり戦争を商売にしたくなかった。ベトナムではいつも自分がたんなる旅行者としか思えなかった」と語り、「いつでも帰れるところがある自分に、後ろめたいものを感じた」と続けた。

「朝起きてから死者の出るような激しい戦闘を取材して、夕方サイゴンに帰ってくるとホテルでビッグ・ディナーにありつく。そんな毎日にとても耐えられなかった」

 沢田教一の本の取材で、わたしはベトナム戦争を第一線で報道した多くの記者やカメラマンに会うことができた。取材を申し込むと日本から来たライターに喜んで会ってくれて、従軍の経験を雄弁に語ってくれた。しかし、戦争報道に後ろめたいものを感じたという言葉は聞いたことがなかった。

 夕方サイゴンでボリュームたっぷりのディナーにありつくことは聞いていたが、そんな毎日にとても耐えられなかったというピートの言葉に驚いた。

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