【東日本大震災】「亡くなったわが子のためにも――」3人の子を津波に奪われた木工作家と妻の“その後” #知り続ける

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「身の丈を超える悲しみを経験すると、人は優しくなれるのだろうか――」

 東日本大震災の直後から東北で暮らし、数多くの被災者の取材を続けてきたルポライター・三浦英之氏が、そう感じた相手は木工作家の遠藤伸一さんだった。

(遠藤さんと妻・綾子さんが経験した凄絶な体験は中編に詳しい)

 3人のわが子を失い、あまりの悲しみに感情すら失ってしまった遠藤さんだったが、ある依頼をきっかけに、一つの「光のようなもの」を見いだす。

 それは、震災で亡くなった一人のアメリカ人女性に関連する依頼だった――後編では、遠藤さん夫妻の涙と再生の物語をお届けする(三浦氏の著書『涙にも国籍はあるのでしょうか 津波で亡くなった外国人をたどって』から一部抜粋・再編集)【文中敬称略・本記事は前中後編の後編です】

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東日本大震災後の暗闇の日々

 その後の日々を夫婦はまるで感情を失ったロボットのようになって過ごした。

 自分は何か悪い夢を見ているんだ──そう思い込もうとしても、朝方わずかに眠って目を覚ますと、周囲の風景は何一つ変わっていない。

 綾子にとってそれは、職場で忙しく働き、スーパーでお総菜を買って帰るだけの日々だった。誰とも会いたくない。会えば、親しかった友人にも突然目の前で号泣される。明るく社交的な性格の彼女には、それが何よりつらかった。

 色彩を失った日々にわずかな光が差し込んだのは、震災の年の初夏だった。

 遠藤の携帯電話に旧知の新聞記者から連絡が入った。震災前、木工の個展に取材に来てくれた朝日新聞の前石巻支局長・高成田享からの電話だった。

「遠藤さんに頼みたい仕事があってさ」と高成田は電話口で言った。

「石巻市で外国語指導助手として働いていた24歳のアメリカ人女性が津波で亡くなった。遺族は本が大好きだった娘の遺志を継いで、石巻市の学校に本の寄付を希望しているようなのだけれど、遠藤さん、そのための本棚を作ってくれないか」

 津波で亡くなったアメリカ人女性の名は「テイラー・アンダーソン」。寄贈される本棚は「テイラー文庫」と名付けられるらしかった。

 その名前を聞いた時、遠藤にはハッと思い当たる節があった。

「ねえ、外人、見たことある?」

 末っ子の奏が小学1年生の時、遠藤にうれしそうに聞いてきたことがあった。

「奏、見たことあるんだよ。お笑いが好きな、奏の英語の先生なんだよ」

 それが津波で亡くなったアメリカ人女性のテイラーだったのだ。妻の綾子に聞くと、長女の花も長男の侃太もテイラーの教え子だった。

 子どもたちも喜んでくれるんじゃないだろうか──。

 真っ暗な心の中にわずかな光のようなものを見つけた彼は、その光を追い求めるように、テイラーが勤務していた七つの小中学校に向かった。事情を説明して要望を聞き取ると、オーダーメイドで本棚を作り始めた。

 寝る間を惜しんでアイデアを練った。子どもたちが場所を気にせず本を楽しめるよう、本棚の底にキャスターをつけ、ベンチとしても使えるようにする。触ったときに木のぬくもりを感じられるよう、ニスは使わず天然のオイルで仕上げる──。

 最初のテイラー文庫が完成したのは震災半年後の2011年9月、テイラーが当時亡くなる直前まで勤務していた万石浦小学校へと寄贈された。

 贈呈式にはアメリカからテイラーの両親や弟妹も訪れ、被災者の前で生前に娘を愛してくれたことへの感謝を伝えた。

「俺にもまだ生きている意味が残っているのだろうか……」

 贈呈式の光景を見ながら、遠藤は言葉にならない感情で胸の中がいっぱいになった。

 以来、遠藤はテイラーの両親の思いに引きずられるように本棚の制作に夢中になった。

 テイラー文庫の活動は徐々に広がり、2013年12月にはテイラーが勤務した七つの小中学校すべてに彼が作った本棚が設置された。

子どもを亡くした母親同士だからこそ

 一方で、そんな夫の活動を、妻の綾子はどこか距離を置いて見つめていた。テイラー文庫の贈呈式の様子もテレビや新聞で眺めるだけ。

 ところが2015年秋、テイラーの母であるジーンが石巻の自宅跡に設置したコンテナ・ハウスを訪ねたとき、テーブルの隅に置かれていた着物の古着を手にとって「この着物で海外の人が喜ぶようなグリーティング・カードを作ってみたらどう?」と提案され、心が揺れた。

 震災後、気持ちが沈み込んだままの自分に対し、テイラーの両親は「日本とアメリカを結ぶ架け橋のような仕事がしたい」と願った娘の夢を少しでも叶えようと、毎年のように日本を訪れ、被災地を回って住民に感謝の気持ちを伝え続けている。

 綾子は、同じ子どもを失った母親であるジーンの姿に「こんなふうにも生きられるんだ」と憧れた。

 そして、気づいた。

「私も変わりたかったんだ……」

 直後、綾子は自宅跡地に設置されたコンテナ・ハウスで週1回、古くからの友人や近隣住民を集めて、着物の古着を使ってグリーティング・カードを作る「イシノマキモノ」の活動を始めた。

孤独から解放された瞬間

 みんなで集まってお茶を飲んだり、おしゃべりをしたりしながら、着物の切れ端を使って色鮮やかなカードを作る。コンテナ・ハウスには笑い声がこだまし、ふと見渡すと、震災後もずっと自分を支え続けてくれている人たちの顔が並んでいた。

「ああ、私はずっと一人じゃなかったんだ……」

 そう気づけてようやく、氷が溶けるように夫や義母を恨む気持ちも薄らいでいった。

「夫は昔から子煩悩で、子どもたちが大好きだった。義母も震災時、死ぬような目に遭いながら必死に子どもを守ろうとしてくれた。つらいのは私だけじゃなかった。みんな同じだったんだって、私、その時、やっと気づけて……」

 綾子はコンテナ・ハウスの中でそう言うと、私の前でボロボロと涙をこぼしながら、精いっぱいの笑顔を作って微笑もうとした。

 ***

【前編】では、夫・伸一さんが津波に押し流され3人の子どもたちと離れ離れになった震災当日のこと、【中編】では震災から3日後、夫妻が再会した時のことをお伝えしている。

※本記事は、新聞記者でもある三浦英之氏が被災地の取材を続ける中で「東日本大震災で亡くなった外国人の数を、誰も把握していない」ということを震災から12年たって初めて知り、その外国人被災者たちの足跡をたどった著書『涙にも国籍はあるのでしょうか 津波で亡くなった外国人をたどって』の一部を再編集して作成したものです。

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