【能登半島地震】馳知事は「ボランティアを控えるように」と言ってひんしゅくを買っただけ、飯田高校の出願者は半減…地元写真館オーナーが語る「珠洲市のいま」

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珠洲は衰退の一方

 江戸時代の能登半島は、大阪から下関を経て北海道(蝦夷地)を結ぶ北前船の「西廻り航路」の重要拠点だった。小樽などとの行き来が盛んだったため、北海道には能登半島出身者が多い。

「私の親戚も北海道にいまして、札幌のクラーク像を作った芸術家もその1人です」と坂さん。札幌市羊ヶ丘公園にあるウィリアム・スミス・クラークの像は、1976年のクラークの来日50年を記念して坂坦道(さか・たんどう)氏が創った。

「珠洲は大きな産業が何もない。(1975年頃から)原発を誘致していたが、反対運動が大きくなったことや電力需要の低下で、計画は立ち消えになった。そのうち、元市長の弟が経営していた、この町最大の建設会社が倒産してしまった。社員も消えてゆき、その後の珠洲は衰退する一方でした」

 2003年に珠洲原発の計画は凍結されたが、仮に実現し、稼働中に今回の地震が起きていれば、被害は日本海側は全体に及んだかもしれない。原発阻止の運動で先頭に立った珠洲市高屋地区にある円龍寺の住職・塚本真如(まこと)氏は今、住民から感謝の言葉が寄せられている。

「過疎地に住むのが悪い」との声も

 もし原発が建設されていたら、今回の地震の被害はもっと大きくなっていたかもしれない。その一方で、大きな産業がない珠洲市の人口は減りつづけ、1950年の約3万8000人が1990年には約2万3000人、今では1万1000人ほどだ。

「人口はどんどん減る。輪島市は商売がうまく、輪島塗や朝市などで売り出し、観光客も来るのですが、珠洲市には来ない」

 筆者が珠洲市の名を知ったのは30年ほど前、原発誘致反対運動がニュースになっていた頃である。坂さんは珠洲の全国的な知名度は低いと言い、「『すず』でなく『たます』なんて読む人が多いんです」と苦笑する。

「地震が起きたあと都会の人たちから『過疎地に住むのが悪い』とか『珠洲のような人がいなくなる街に金を使うのは税金の無駄遣いだ』という声が出ている。輪島市なら観光などで石川県に貢献してきたでしょうけど、珠洲は家庭菜園なんかに使う珪藻土(けいそうど)くらいしか産物がなく、大きな観光地もない。東京に住んでいたら僕も同じことを思うのでしょう。僕のような仕事は、町に人がいなくなったら終わり。経済的に貢献してないから偉そうなことは言えない。だから助けてくださいとお願いするしかないのです」

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