【ケーシー高峰の生き方】「グラッツェ、アミーゴ、やってるか、母ちゃん」…本人が語っていた独特な漫談の秘密

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一度は医学部へ進むが

「ケーシーの後だけは高座に上がれねえ。あまりにウケすぎて落語をやれる空間ではなくなってしまう」

 落語家の立川談志さん(1936~2011)が絶賛していたのを思い出すが、どこでどうすれば客の笑いがとれるのかをきちんと計算していた。そして、何よりも努力の人でもあった(この点については後に詳しく書く)。

 1934(昭和9)年、豪雪地帯で知られる山形県最上町出身。母方が江戸時代から続く医者の家系だった。ケーシーさんは5人きょうだいの末っ子である。上の3人は医師や歯科医師になり、自身も日本大学の医学部へ進んだ。

 だが、音楽や芸能の世界への憧れが抑えられなくなり、1年もたたずして同大学の芸術学部に転部する。ジャズクラブなどで司会を務め、やがて大学の先輩と漫才コンビを組んだ。医者になることを期待していた両親はもちろん激怒。ケーシーさんはしばらくの間、勘当の身となった。

 脳外科医を描いた米国ドラマ「ベン・ケーシー」と憧れの女優・高峰秀子さん(1924~2010)から芸名をとり、1968年、漫談家・ケーシー高峰としてデビューする。親思いだったのだろう。「親が見たら喜ぶんじゃないか」と思い、白衣姿で舞台に上がったというから泣けてしまう。翌年、日本テレビの人気番組「11PM」に対抗しようと、東京12チャンネル(現・テレビ東京)が始めた「おいろけ寄席」の司会に起用された。日大の先輩の推薦だったそうである。

 50歳を過ぎてから福島県いわき市に移り住んだ。自宅には大学ノートにメモ書きしたネタ帳がどっさり山積み。新聞も全国紙からスポーツ紙までくまなく目を通した。努力家・ケーシー高峰の素顔である。

 渋い脇役もこなす性格俳優として「夢千代日記」(NHK・1981年)などのテレビドラマや映画でも活躍。人気ドラマ「木更津キャッツアイ」(TBS・2002年)では男色家の高額納税者を演じ、「ヒキガエルのような怪優」と若者の間でも話題になった。

 2011年3月11日の東日本大震災。自宅は高台にあったので津波の被災は免れたが、すぐに避難所へ駆けつけた。「こんなときこそ笑いが大切だ」。ストーブを囲みながらおなじみの漫談で和ませた。

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