「ママ、もうこれ以上は我慢できない」と男性は叫んだ…モスクワ劇場テロ占拠事件、極限状態58時間からの脱出と“特殊ガス”

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前編【「小銃を抱えた武装集団を見た時は特別な演出かと」「トイレは屈辱的だった」…モスクワ劇場テロ占拠事件 生存者が語った恐怖の58時間】からのつづき

 チェチェン共和国の独立派が2002年10月23日夜、ロシアの首都モスクワで起こした劇場占拠事件。「あなたたちのせいで、チェチェンでは罪のない人たちが殺されつづけています」――テロリスト側の主張が明確だっただけに妥協の余地はなかった。58時間にわたる占拠はロシア特殊部隊の突入で終了するが、その際に使用された”特殊ガス“で人質100人以上が死亡という悲劇をもたらす。その渦中にいた生存者は、救出から間もない当時に何を語ったのか。当時の衝撃ルポ(後編)をお届けする。

(前後編記事の後編・「新潮45」2002年12月号掲載「モスクワ劇場占拠 人質女子大生『戦慄の告白』」をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記、事件に関する情報・詳細等は執筆当時のものです)

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人質の電話を使って主張をアピール

 人質たちは比較的自由に携帯電話で外部と連絡を取っていた。発生当初から彼らは家族、新聞やテレビ、救急センターに数多くの電話をかけているが、これは武装グループが意図的に許していたからだった。

 それどころかその電話で人質の家族に対し、ロシア軍のチェチェン共和国内での軍事行動に反対する集会を開くよう要求までしている。そして25日、実際に劇場近くと赤の広場で集会が持たれた。「戦争反対」「劇場に突入するな」と書かれたプラカードを家族たちが掲げたのである。

 こうしてロシア国内でその主張をアピールする一方、外国人の人質には自国に連絡させて、国際的な注目を集めるよう計らっている。また25日には民間のテレビ局を劇場に入れ、リーダーのモフサル・バラエフ野戦司令官を撮影させている。

「わたしの周りの人質たちは落ち着いていて、お互いにサポートし合っていました。『大丈夫、心配することはない。すぐに事態はよくなるよ』と、励ましあいました。会話の内容はいつも救助に対する期待であり、新しい情報の交換です。テロリストたちからときどき外に電話してもよいと許可されていたので、外で何が行なわれているか聞いては、情報を交換し合いました。交渉が行なわれていることは知っていました。でも情報は断片的なものばかりで、方向性や枠組はわかりませんでした」

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