小学校卒業と同時に貴ノ花を訪問、直談判…貴闘力の相撲人生はとにかく劇的だった
おかみさんの発案で「貴闘力」に変更
新弟子は雑用が多い。忠茂はけっして器用なほうではなかったが、
「はかまを洗うようにと言われると、黙々とその仕事をこなしていた。一つのことに没頭すると、他のことが見えなくなるところがあるんです(笑)。でも、仲間のことを思う気持ちが強くて、兄貴分的な存在だった」
と、同期生の1人で、のちに部屋のマネージャーを務めた堀井弘司さん(元・無双力)は振り返る。
稽古場では師匠から、1歳兄弟子の山中(のちの関脇・安芸乃島)と、毎日三番稽古を命じられた。忠茂は稽古を休むことはなかった。こうした日々のスパルタ指導が実ったのは、忠茂が21歳の時だった。
平成元年夏場所、新十両に昇進。四股名は本名の鎌苅から「貴闘心」に改名することになっていた。ところが、おかみさんの発案で「貴闘力」と変更。闘争心を前面に出して、力強い相撲を取る忠茂にとっては、ぴったりの四股名だった。
平成2年秋場所、貴闘力は新入幕を果たす。奇しくも5年遅れで初土俵を踏んだ、勝こと若花田、曙と同時昇進。折からの若貴ブームに敵役の曙が加わって、世の中は空前の相撲ブームに沸いていた。
大鵬親方の三女・美絵子さんと結婚
平成3年夏場所初日は、新旧交代を告げる大一番が組まれた。大横綱・千代の富士に18の貴花田戦。若武者・貴花田が勝った瞬間、千代の富士時代は終焉を迎えた。その2日後の3日目、今度は貴闘力が千代の富士に土を付け、この一番を最後に千代の富士は土俵に別れを告げる。
貴闘力はその後も三役、幕内上位で敢闘相僕を見せ続けた。平成5年には、藤島部屋と二子山部屋が合併し、一時は関取衆が10人という一大勢力となっていた。
そして平成6年は、相撲、私生活においても絶好調の一年となった。春場所、12勝3敗の好成績を挙げた貴闘力は、同じ部屋の弟弟子・貴ノ浪、曙と共に優勝決定巴戦に出場。優勝こそ逃したものの、貴闘力の存在感をおおいにアピールした。
私生活では、一代年寄大鵬の大鵬親方の三女・美絵子さんと結婚。大鵬、貴ノ花という偉大な「父」を持った貴闘力は、その後4人の男児に恵まれることになる。
若貴兄弟を軸として、小錦、寺尾、モンゴル人力士の先駆者・旭鷲山など、多くのタレントたちが土俵をにぎわす中、貴闘力は30歳を過ぎる頃から、相撲に次第に従来の力強さが見られなくなってきた。
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