昭和天皇も見入った麒麟児の突き押し相撲 昭和56年名古屋場所から3年間続いた“面白い現象”とは

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「花のニッパチ五人衆」として

 さて、麒麟児が新入幕を果たした場所、新横綱に昇進したのが、北の湖(のちの相撲協会理事長、15年没)である。同時に入幕した金城(のちの栃光、02年没)、すでに三役に定着していた若三杉(のちの横綱・若乃花=二代目、22年没)、昭和48年秋場所、新入幕で三賞を独占した大錦(のちの山科親方)の5人は、奇しくも同じ昭和28年生まれ。そこで、「花のニッパチ(28年)五人衆」として、ファンの注目を浴びるようになる。

 昭和50年は、特に「麒麟児」の名を轟かせる1年となった。初場所、横綱・輪島からの金星で、殊勲賞を受賞、春場所は輪島、若三杉に勝利し、技能賞を受賞。夏場所は、輪島からの白星、中日の天覧相撲・富士櫻との熱戦を評価されて、敢闘賞を受賞。

 三役の常連となった麒麟児は、翌昭和51年名古屋場所では、北の湖、輪島の両横綱から金星を上げて、11勝4敗とし、殊勲賞、敢闘賞をダブル受賞。翌場所でも両横綱を破る大活躍を見せ、テンポがよく、回転の速い突き押し相撲に磨きがかかっていった。

 こうした活躍から、お茶の間での人気も急上昇。大関・旭國と共に、「アサヒ国」「ギリン児」とライバル会社のビールをもじって、サントリービールのテレビCMに登場。爽やかな笑顔を見せていた。

突き押し相僕で生まれた“ある現象”

 昭和54年春場所、栃赤城との対戦で右足を痛めた麒麟児は途中休場。翌夏場所土俵に復活したものの、秋場所前の稽古でヒザの関節を痛めて、全休。翌九州場所では、5年間保っていた幕内から陥落するという憂き目に遭ってしまう。

 それでも、麒麟児は十両二枚目で10勝を挙げて、1場所で幕内の土俵に戻ってきた。そして、昭和56年名古屋場所からは、麒麟児の成績に面白い現象が起き始める。

 番付が前頭中位~下位に位置する地方場所では勝ち越し、三役、あるいは前頭上位となる東京場所では負け越しと、成績がくっきりと二分化したのである。麒麟児の突き押し相僕は、横綱、大関陣には通じないものの、幕内中位レベルなら十分に力を発揮するという現象は、その後、3年にわたって続いた。

 新国技館のお披露目となった昭和60年初場所では勝ち越して、このパターンは一時的に崩れたものの、翌春場所からは、地方場所で負け越して、東京場所で勝ち越しという新パターンが続いた。

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