「30歳くらいの女の子に告白され、“幸せにできない”と断り…」 桐島聡容疑者、音楽バーに入り浸った逃亡生活の全容

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 過激派組織「東アジア反日武装戦線」のメンバーだった桐島聡容疑者(70)を名乗る男性が1月29日、神奈川県鎌倉市の病院で亡くなった。生前の彼を知る人物たちに話を聞くと、49年前に指名手配された爆弾魔のテロリストが送っていた、意外すぎる逃亡生活の実態が浮かび上がってきた。

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 1974~75年に発生した連続企業爆破事件は日本中を恐怖で震え上がらせた。その内の一つ、74年8月の三菱重工ビル爆破事件では8人が死亡し、400人近くが重軽傷を負った。

「一連の事件は東アジア反日武装戦線によって起こされました。この組織は“日帝”たる日本が第2次大戦後に再び大国化し、アジア諸国を経済侵略していると捉えていた。よって、その中枢の企業を打倒するという身勝手な論理で、次々に爆弾テロを仕掛けていったのです」(社会部記者)

 すでにメンバーは8人が起訴され、2人が国際手配されている。桐島容疑者に関しては75年4月に韓国産業経済研究所の入口ドアを爆破した疑いで、同年5月に指名手配された。

風呂なしアパートで普通の暮らし

 その後、誰もが一度は目にしたことがあるだろう“あの顔”が、重要指名手配犯として現在まで街のいたるところに貼られ続けてきたわけだ。

 しかし、49年間もの長き時を経て突然、自らを桐島だと名乗る男が現れたとのニュースが、1月26日に報じられた。

「その男は1月に入ってから鎌倉市の病院に“内田洋”という偽名を使い、入院してきました。最初は病院関係者に対して、自分はあの桐島聡だと言っていたようです。25日に初めて警視庁の捜査員が聴き取ると、本人しか知り得ない家族に関する情報などを告白し、桐島容疑者である可能性が高いとの結論が出たのです」(捜査関係者)

 ただし、末期がんを患っていた彼はその時点で容体が危なく、多くを語らぬまま4日後に亡くなった。

「内田洋こと桐島容疑者は藤沢市の工務店に40年ほど勤務していました。その近所の風呂なしアパートに住みながら、地元に根付いた普通の暮らしを送っていたのです」(同)

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