知識に縛られずにアホに生きたら… 横尾忠則が10代で読書をしなかった理由

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 新年を迎えると、毎年心機一転何か新しい志を立てるのですが、何ひとつ実行できたものはありません。

 まず、今年は身体を動かす年にしようと決心しましたが、10秒ぐらいで「できない」という結論に達しました。

 次に浮かんだのは、絵を描く以外の時間があり余るくらいあるので、この時間を有効に利用できないかという発案なんですが、考えてみればこの何もしない無為な時間こそ僕にとって有為な時間に違いないということに気づきました。一般論的には、こんなに何もしない時間があるなら読書をしなさい、と言われそうですが、僕的には読書をする時間は勿体ない、そんな時間があるなら、ボヤーッとしていたい。ボヤーッこそが最も創造的になれる豊かな時間なのです。頭を空っぽにすることで、宇宙と繋がるのです。頭にギシギシに知識をつめ込んでしまうと、その知識から自由になれません。知識の範囲内からしか発想ができなくなってしまうのです。

 この間テレビで盛んに読書を奨励する番組をやっていました。それを見ながら僕はまるで健康サプリメントを勧められているように思いました。読書をすることによって頭が健康になると言っているのです。サプリメントを採るなら僕は美味しい食べ物を採ります。つまり身体に直接栄養を与えてくれるものです。僕にとっての読書は知識ではなく、生活上で実践するためのものです。僕が最も好む本は仏教書、特に禅の本と、画集です。両方共、知識や教養のためというより実践的な本です。

 言い方を変えれば、読書の時間は肉体を通して妄想、空想する時間、つまり「考える」のではなく、「想う」時間です。英語では「考える」も「想う」もthinkですが、日本語では頭で考えるのと、心で想うという二つの言葉に分かれています。考えるは頭の機能ですが、想うはいったい肉体のどの場所で想うのでしょうか。わかりませんが、このわからないことが、重要な気がします。魂という言葉もありますが、では魂は肉体のどの部分に宿っているのでしょうか。考えるのは脳であるということはわかっています。脳という物質部分です。唯物的です。でも心と魂は脳の働きではありません。肉体の中に位置するのか外に存在するのかわかりませんが、心と魂は脳とは無縁の霊的な存在ではないかと僕は想像するのです。

 そこで僕が考えるのは、「考え」は脳という肉体の中に閉じ込められているので、地上的です。だけど「想い」は肉体のどの場所にも定着しない、宙をうろうろしているような存在なので、地上から離脱して地球の成層圏を突き抜けて宇宙へ飛翔します。つまり、「考え」は脳に閉じ込められてキャパシティが小さいけれど、「想い」は自由のキャパシティが無限というわけです。

「考え」は地上的で非常に「カシコイ」です。だから自由のキャパシティは限定されていて宇宙的にはアホになれません。それに対して「想い」は自由勝手気儘でルールを無視した無法者です。どうしようもない「アホ」な奴です。寒山拾得のような突き抜けたアホのエネルギーに支配されています。自由は何の圧迫も受けず思いのままです。他からの制限や束縛を受けないで自分の意志や感情に従って行動しますが、「カシコイ」と分別臭く、何ごとにも白黒をつけたがり、理由の通らないことはしません。知識と教養という観念に縛られて、その範疇の自由でしか生きられません。その点、「アホ」は目的を持たず、大義名分がない分、遊び心と子供心を有し、何の制約もなく、何んでもありの肉体的存在です。

 僕が子供時代から読書に全く縁がなかったのは、「アホ」になれたからだったのかも知れません。小学校の先生も誰ひとり、読書を勧めませんでした。食糧難の時代だったので、勉強より体力づくりの方に教育の主眼があったからかも知れません。そして中学の3年間はアッという間に過ぎて、頭から記憶が消えています。きっと面白くなかったんでしょうね。高校に入ってからは、どうせ経済的には大学には行けないことがわかっていたので油絵ばかり描いていました。描いていても手ごたえがなく、これまたちっとも面白くないのですが、他校との対抗展などでは結構高成績を上げていたので、学校としてはPRになると考えたのでしょう、僕に絵ばかり描かせていました。だから、読書などする時間は全くありません。というか読書への興味など最初からなかったのです。絵ばかり描いていると進級ができないのですが、そこは先生が上手くやってくれて、ウソみたいに易しい追試験ばかり受けさせてくれました。

 まあ、そんなお陰で僕の十代でスコンと抜けているのが読書でした。読書体験は無かったですが社会人になってからは色んな業界の人達との交流を通して、彼等から創造と生き方を学ぶことができたのです。頭が海綿体になっていたのか、彼等を通して、何んでも吸収することができました。だから僕にとっては彼等との交流そのものが読書であったのかも知れません。そんなわけで今年もボヤーッと過ごそうと思います。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2024年2月1日号掲載

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