「実子がいるのに、夫婦養子に儀式を…」 琉球王朝「尚家」のお家騒動、何が起きているのか

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借金が3億円に

 同家の戦後は、衞氏の父・尚裕氏から始まる。裕氏は王家第21代当主・尚昌侯爵を父、豊前小倉藩最後の藩主・小笠原忠忱(ただのぶ)伯爵の次女・百子を母とし、1918年に東京で生まれた。東京帝国大学文学部を卒業後海軍に入隊、大尉で終戦を迎えている。

 戦前に父・尚昌を亡くしていたため、その時点で襲爵して第22代当主となり、莫大な遺産を相続した。遺産の大部分は沖縄にあったため、GHQが華族の解体を狙って本土で実施した財産税を免れ(沖縄とは制度が異なる)、ほとんどの遺産は温存された。これが不幸の始まりだった。

 遺産のなかには、歴代王の陵墓として知られる玉陵(たまうどぅん)や王家別邸の識名園、王家の寺院だった崇元寺(廃寺)、陵墓の一つだった浦添ようどれなどが含まれ、沖縄戦で被害を被ったこれらの史跡を修復・復元するために、多額の借金を重ねることになったからである。

 裕氏は、1973年にショウエンタープライズを興し、レストラン経営などに乗り出すが、借金は減るどころか増える一方で、1980年ごろの借入金の総額は三億円に膨れ上っていた。

 1980年、裕氏は啓子夫人に後を託すかたちで失踪してしまう。困り果てた啓子夫人は、かつて尚家資産の管理を担当していた新琉球実業社の元幹部で、「モーニング・スター」(英文日刊紙・1975年廃刊)の元社主だった小川武氏(2017年逝去)に債務整理を依頼する。

実刑判決を受けた小川氏

 小川氏は、尚本家の債務整理に協力し、家族の生活資金まで工面したようだが、債務整理のめどが付いた1983年7月ごろになって裕氏が再び姿を現す。尚本家の財産は、尚本家が地元自治体の協力を得て起ち上げた尚家管理財団(尚財団)が管理することになった。

 小川氏は債務整理の過程で生じた売却益を申告しなかった法人税法違反(脱税)の容疑で国税庁から告発され、罰金1億2千万円、懲役1年6月の実刑判決を受けたが(1987年7月、東京高裁で確定)、裕氏の小川氏に対する信頼は厚く、服役後、尚財団の理事長に就任している。

 紆余曲折を経て、裕氏は、1992年に玉陵、識名園、旧崇元寺を那覇市に寄贈、1995年には、浦添ようどれを浦添市に寄贈している。さらに同年、琉球王府の古文書1341件を、翌96年には王冠や刀剣を含む85点の美術工芸品を那覇市に寄贈した。尚本家から寄贈されたこれらの資料は、2006年に「尚家関係資料」として国宝に指定されている。

 こうした功績をたたえて、裕氏は、1996年に那覇市名誉市民の称号を授与されたが、1997年に沖縄で逝去した。

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