両先発が「延長28回」を完投!? プロ野球の“スーパー延長戦”は凄まじい大熱戦だった!

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幻と消えたサヨナラ勝ち

 現在のプロ野球の延長戦は最大12回までだが、かつては延長20回を超える死闘もあった。高校野球でもあり得ない長丁場にもつれ込んだ“スーパー延長戦”の名勝負を振り返ってみよう。【久保田龍雄/ライター】

 まず、プロ野球史上最長イニングを記録したのが、第二次世界大戦中の1942年5月24日に後楽園球場で行われた名古屋(現・中日)対大洋(後の西鉄軍)である(※ちなみに、この大洋は、戦後の大洋ホエールズとは全く関係がない)

 大洋・野口二郎、名古屋・西沢道夫の両先発で午後2時40分に始まった試合は、2、3回に名古屋が敵失に乗じて1点ずつを挙げ、2対0とリードした。これに対し、大洋も6回に3番・浅岡三郎の左翼線二塁打で2対2の同点。7回にも3連打と一塁手の本塁悪送球の間に2点を勝ち越し、勝負あったかに思われた。

 だが、名古屋も9回2死から四球の走者を置いて5番・古川清蔵が起死回生の左越え同点2ラン。4対4のまま延長戦に突入した。

 その後は野口、西沢の投手戦となり、スコアボードに仲良くゼロが並んでいく。同年4月12日の阪急対大洋の延長19回を上回る新記録の20回に入っても勝負はつかず、ついに中等学校記録の25回(1933年夏の甲子園準決勝、中京対明石。現在も高校野球史上最長イニング)、大リーグ記録の26回(1920年5月1日のボストン・ブレーブス対ブルックリン・ロビンス)をも超えた。戦中だった当時は、野球に対しても敢闘精神が求められ、試合も勝負がつくまでやるのが望ましいとされていた。

 27回裏、大洋は2死二塁で織部由三が中前安打を放ったが、二塁走者の捕手・佐藤武夫が三塁ベースを回ったところで疲労が限界に達し、倒れてしまったため、サヨナラ勝ちは幻と消える。

 そして、延長28回も両軍ともにゼロに終わると、午後6時27分、審判団は協議のうえ、引き分けでゲームセットを宣告した。両投手ともに完投で、投球数は野口344球、西沢311球だった。

「もう疲れた。誰か代わってくれ」

 2リーグ制以降のパ・リーグ記録を更新する延長23回で決着がついたのが、1954年10月10日の近鉄対東映である。

 近鉄の先発は、防御率2.04を記録しながら、0勝5敗と勝ち星から見放されているレン・カスパラビッチ。「(帰国前の)最終登板で何とか勝たせてやりたい」という芥田武夫監督の恩情起用だった。これに対し、東映は同年チームの勝利数52のうち23勝を挙げた大エース・米川泰夫がマウンドに上がった。

 変化球を駆使して9回まで3併殺と打たせて取るカスパラビッチに対し、米川も速球とシュートを武器に毎回のように走者を出しながらも、点を許さない。

 0対0で迎えた延長15回、すでに169球を投じていたカスパラビッチは代打・関根潤三を送られ、「最後に白星を挙げてハワイに帰りたい」の夢を断たれる。だが、16回からエース・田中文雄がリリーフし、22回までの7イニングを被安打わずか3の力投を見せる。

 一方、カスパラビッチ降板後も一人で265球を投げつづけてきた米川も、22回が終わると、「もう疲れた。誰か代わってくれ」とついに音を上げた。

 そして、前年6月25日の大映対近鉄の延長22回のパ・リーグ記録を更新した23回、近鉄打線は代わった上野重雄から武智修の二塁打と4番・鬼頭政一の送りバントで1死三塁としたあと、日下隆が三塁前にサヨナラスクイズを決め、1対0で4時間30分の死闘にようやく終止符を打った。

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