セ3球団を渡り歩いた“代打の切り札”大野雄次さんの告白 巨人を出された原因は長嶋一茂、引退を決意して野村克也監督から送られた言葉

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 現役引退後、指導者や解説者など、野球に関連した仕事ではなく、「異業種の世界」で生きている元プロ野球選手の今に、ノンフィクションライターの長谷川晶一氏が迫る新連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第3回は元大洋、巨人、ヤクルトと関東のセ・リーグ3球団を渡り歩いた大野雄次氏(62)。26歳でプロ入りしてからの選手生活を振り返ってもらった。(前後編の前編)

バット一本で、セ・リーグ3球団を渡り歩く

 JR田町駅西口に直結する森永プラザビル。1974年に竣工したこのビルは築50年を前に、すでに取り壊しが決まっている。地下1階は「エンゼル街」と呼ばれ、レストランが数店舗、軒を連ねている。早朝8時、店を訪れると、すでに豊洲市場からの買い付けを終え、ランチの仕込みを済ませた「その人」が待っていた。

「おう、待ってたよ。一体、オレの話なんか、誰が興味あるんだよ(笑)」

 大洋ホエールズ、読売ジャイアンツ、そしてヤクルトスワローズ。関東のセ・リーグ3球団をバット一本で渡り歩き、主に代打の切り札として活躍した大野雄次は今、エンゼル街の一角でうなぎを扱う「大乃」の店主を務めている。11時半から始まるランチタイムを前にしたほんの束の間、これまでの半生を伺うこととなった。

「大した話はできないと思うけど、まぁ、何でも聞いてよ」

 ぶっきらぼうな物言いだが、その目は笑っている。

 ***

 社会人・川崎製鉄千葉を経て、「子連れルーキー」の大野がプロ入りしたのは1987年、26歳のときのことだった。この年の大洋は、前任の近藤貞夫から、広島東洋カープを三度も日本一に導いた古葉竹識が監督に就任したばかりで、チームも生まれ変わろうとしていた。

「26歳でのプロ入りだったけど、バッティングには自信があったし、“ここは一発勝負をかけてみるか”という思いで、何の不安もなく、即決で“お願いします”と返事したよ。でも、当時の大洋のレベルがどの程度かもわからない。いきなりレギュラーなんて難しいことは分かっていたから、“まずは1軍入りしたい”、その思いだったんだけど、1年目のキャンプでヘタこいたんだよ……」

 いきなり1軍キャンプに抜擢された。持ち前の力強いバッティングを披露して、首脳陣からの評価も上々だった。一体、どんな「ヘタこいた」のか?

「静岡の伊豆キャンプで、練習後にベテランの田代(富雄)さん、山下(大輔)さん、高木由一さんと一緒に呑み歩いちゃったんだよ。彼らはベテランだから許されるけど、オレはルーキーでしょ。コーチに見つかって、“お前は自分の立場をわかってねぇな”ということになって、それから2軍落ち。で、そのまま開幕も2軍で迎えたんだよね(笑)」

 入団から数年間は、なかなかチャンスを生かすことができなかった。本人も自覚していたように、「いかんせん守備はプロレベルじゃなかった」ものの、バッティング、特に長打力には大きな魅力を秘めていた。少しずつプロの水になじみ始めた頃に転機が訪れる。

「オレさ、須藤監督とソリが合わなかったんだよね……」

 古葉の後を受けて、1990年から大洋の監督となったのが須藤豊だった。同年7月、神宮球場でのヤクルト戦のことだ。

「3連戦の初戦、オレのホームラン2本で勝ったんだ。でも、3戦目はオレのサヨナラトンネルエラーで負けたんだよ。その試合の後、須藤さんがベンチで大暴れして、試合後には“お前なんか、もう使わない!”だよ。そしたら、案の定、それ以来出番がなくなってさ」

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