「72時間生き埋めになった母の最期の言葉は…」 能登半島地震、遺族たちの悲痛な慟哭

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 236名の命を奪った「能登大地震」から4週間。押しつぶされた家屋や灰じんに帰した火災現場には時に冷たい雪が舞うが、犠牲者の無念、そして残された者たちの悲しみは決して覆い尽くされることはない。大寒を迎えた被災地から聞こえる声に耳を傾けよう。

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 石川県は1月15日以降、犠牲者の死因を公表している。その9割弱は「家屋倒壊」。死者のほとんどは倒れた家屋などの下敷きになる「圧死」や「窒息死」だったということだ。

「正月には子どもと一緒に会いに行く予定でした。みんなと会うのが楽しみだと母は言っていましたので、最後に顔を見せてあげられなかったのが心残りです」

 そう語るのは、外(そと)武志さん(60)。輪島市中心部・堀町(ほりまち)にある実家が倒壊し、母・節子さん(89)と弟・忠司(ただし)さん(58)を失った。

 地震が発生した元日夕刻、武志さんは自宅のある金沢市にいた。輪島で震度6強の揺れがあったと知り、電話をしたものの両名ともつながらない。車を走らせるも、道路の寸断や渋滞などで引き返さざるを得なかった。

「一緒に、そばにいてあげればよかった」

 救出されないまま3日が経過すると要救助者の生存率ががくんと下がる「72時間の壁」。それが迫る中、

「4日の夕方、消防の方から連絡がありました。母が1階の居間で無事に発見された、と。救出の際にうめき声を発しながら手を動かしていたそうで、担架で運ばれる時も、付けられた酸素マスクを払いのけるほどだったそうです」

 一方、

「弟はダメでした。同じ居間で柱に挟まれて。普段は2階にいますから、1回目の揺れの後に母の様子を見に下り、その間に2回目が来て下敷きになってしまったのではないでしょうか」

 翌5日早朝、輪島市立病院で節子さんと面会した。

「“電話してくれてありがとうね”と言う。まだ状況把握ができていなかったようです。目立った傷は頬の擦り傷くらいでしたが、3日間片脚を折り曲げた姿勢だったようで、お医者さんからは“絶対、クラッシュ症候群になるから、全力を尽くして対応します”と言われました」

 クラッシュ症候群とは、長時間体が圧迫されたことによる種々のショック症状で心停止状態に陥ることだ。

「でも私はそんなことはないと高をくくり、弟の葬儀の準備もあるので、金沢に帰ってしまったんです。その日の深夜、容体が急変したと連絡があり、急いで駆け付けましたが帰らぬ人となってしまいました。まさかこうなるとは思わなかった。一緒に、そばにいてあげればよかった。今さら遅いですが後悔しています」

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