【追悼】「これで俺の相撲人生は終わった」 元関脇寺尾、錣山親方が実感した出来事とは

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前編【「僕は、宇宙一、国技館で負けている人間だ」 元関脇・寺尾、錣山親方はボロボロになっても土俵に立ち続けた】からのつづき

 昨年12月17日、60歳で亡くなった元関脇寺尾、錣山親方の人生をたどる感動のノンフィクション。前編では相撲を始め、三役にまでなった彼が、十両転落の危機に陥るところまでをお伝えした。

 後編では、2000年夏場所、西前頭十三枚目で負け越して十両転落か引退かが注目された場面から、その後の人生までを見てみよう。

(黒井克行著『男の引き際』から抜粋・再構成しました)

 ***

記者は唖然

 引退か? 十両か? 千秋楽の取り組みを終えた寺尾の口から何が飛び出すか、大勢の記者が待ち受けていた。

「皆さん、また来場所お会いしましょう!」

 寺尾は、その一言を残し、さわやかに引き上げた。期待外れだったのか、予想もしていなかったユニークな言葉に、記者たちは唖然としていた。

「自然と口をついて出てきた言葉ですよ。十両に落ちてからも『横綱(貴乃花)とあたるまで頑張るぞ』の一念で相撲を取り続けていました。幕内にすぐに戻る自信はありましたからね」

 実際にひと場所おき、十両で3場所連続勝ち越しを決め、38歳で史上最年長の返り入幕を果たした。くしくも38歳は偉大なる父・鶴ケ嶺が引退した年齢である。

 寺尾はボロボロの肉体を引きずってでも、貴乃花と対戦し、そして勝ちたかったのだ。小さな負けん気であり、相撲を取り続けるための最大のモチベーションだった。そしてもう一つ、本人はあまり口に出しては言わないが、寺尾を土俵に向かわせる大きな理由があった。それは次の言葉によく表れている。

「相撲は決して一人では取れないんですよ。家族やまわりの応援に支えられながら、まわしを引っ張ってくれる若い衆や付け人らにも夢の手伝いをしてもらってはじめて相撲が取れるんです」

 寺尾は自分のまわりに角界から去っていった若い力士たちがいたことを忘れず、ずっと記憶にとどめていた。心筋梗塞で引退に追い込まれた付け人、網膜剥離で志半ばにして廃業した仲間、相撲が好きで好きで心臓病のために医者に止められてもこっそり稽古して若くして死んだ後輩たちが残していった、相撲への情熱をも背負っていたのだ。

「相撲が取れるだけでも贅沢過ぎますよ。たとえケガしたところで1カ月、2カ月我慢したらまた土俵に戻れるじゃないですか。落ちたといっても十両は関取だし、素晴らしい地位じゃないですか。また頑張って幕内に戻ればいいんだから、最後の最後まで粘るだけ粘ってやろう、あがくだけあがいてやろうと思っていました。ボロボロになっても相撲が取れるうちは、取り続けるのが力士の務めだと思います。やめることはいつだってできるんです。でも、僕は絶対に、簡単にはやめられませんでした」

場所前日にぎっくり腰

 しかし、寺尾にもとうとうその日が来た。

 2002年秋場所、東十両十一枚目。

「この場所はものすごく体調が良くて、十両優勝するくらいの気持ちでのぞむはずだったんです。ところが、場所前日にぎっくり腰をやってしまったんです」

 千秋楽を残して4勝8敗2休となったが、寺尾はまだこの時点では引退を真剣に考えてはいなかった。14日目の取り組み後も鳥のささ身を食べ、体を作ることに余念がなかったのだ。ところが、自宅居間のテーブル上に置かれた一枚のメモが、寺尾の心を揺さぶった。

 寺尾は土俵上で激しい闘志を見せても、家に帰ればどこにでもいる普通の父親の顔になる。伊津美夫人とのあいだに生まれた、当時7歳になる晴也君の走り書きであった。

 晴也君は、10年間に及ぶ永い春の末に入籍した、伊津美夫人と寺尾の宝物だった。几帳面で戸締りにまで細かく口を出すところが父親そっくりで、カラオケでは親子でマイクを奪い合うという。

「引退相撲の時は、晴也と国技館の土俵上でいっしょに相撲を取りたい」

 まさに晴也君は寺尾にとって目に入れても痛くない存在なのだ。その晴也君は場所中、闘い終わって帰宅する父親に寄せて、激励のメッセージを紙の切れっ端に書いて、そっと居間のテーブルの上に置いていた。

「あした頑張ればいいや」

「元気出して下さい」

 負けて帰宅しても、その紙の切れっ端は寺尾にとって、明日の一番に向けての何よりのエネルギーとなっていた。ところが、千秋楽を明日に控えたこの日のメモに書かれていたのは、

「トト(寺尾の愛称)、いつまでも元気でいてね」

 相撲とは離れた走り書きだった。

ついに決意

「息子は僕が一生相撲を取っているものだと思っていたんです。晴也は相撲が大好きで国技館にもしょっちゅう観にきていましたからね。いずれやめるなんてことはイメージできなかったと思います。でも、僕の負けがこんできた時に『トト、相撲をやめちゃうの?』と泣いていたらしいんです。いつの間にか、子供なりにわかりはじめていたんですね。相撲で負け続けることがどういうことかを理解し、その時はどうなるかを納得して割り切ったのが、私に宛てたあの子の、このメッセージだと思いました」

 晴也君に気を使わせてしまったのではないか、強い父親を見せられなくなったのかもしれない、メッセージから滲(にじ)んでくるニュアンスが寺尾の心を刺したのである。それは他のどんな親しい仲間からの直言よりも重いものであった。

「あがくだけあがいて、最後の最後まで」のつもりで、まだまだ先だと思っていたが、それは今、寺尾の目の前に突きつけられていた。寺尾は引退を決意するしかなかった。

「このまま幕下に落ちてしまうようなことがあれば無給になり、まわしも変わり、付け人もいなくなってしまう。まわりは気を使って付けてくれるかもしれませんが、それに甘えるわけにはいきません。もうそこまでの姿を見たくない人もいるでしょう」

 晴也君のメッセージが寺尾に引導を渡す形になった。最後の土俵の朝が来た。寺尾は家族全員を国技館に呼んだ。実はそれまで寺尾を陰で支えてきた夫人は、テレビ以外で相撲を見たことがなかった。夫の一番は、いつも自宅のテレビの前で正座をして祈るように、時には手を合わせて応援していたという。

「いつもより緊張していましたね。でも、場所入りする前にリラックスしようと、ニコニコしながら子供といっしょに写真を撮ったりしていました。出掛けに、嫁さんから、『勝ってね』と言われたんですが、最後ぐらい楽しませてくれよと思いましたよ」

 土俵人生最後の相手は小城錦だった。黒星の歴代1位を記録した時と同じである。

 寺尾は突き落としで勝ち、最後の土俵を後にした。

「常に勝つことだけを意識して取り続けてきたので、勝った時は嬉しかったですね。心の中で叫んでいましたよ、『どうだ! 俺は弱くてやめるんじゃないぞ!』とね」

 花道の先では夫人、仲間、そして晴也君が花束を持って待っていた。寺尾の23年間を労(ねぎら)いながら。寺尾は子供から花束を受け取ると、照れを隠すためにそのまま歩を緩めることなく仕度部屋へと消えて行った。

「皆の顔を見た時、『終わったな』と。涙? 『ウッ』とくるものはありましたが一瞬です。誰も気がつかなかったはず。あとはいつものように淡々としていましたね。風呂に入りながら、『いい相撲だったか?』と若い衆にいつもどおりに聞いていましたよ」

 寺尾の力士としての相撲人生は終わった。

悔いはありましたよ

「完全燃焼? 23年も取り続けてきたからそう思われるかもしれませんが、悔いはありましたよ。千秋楽の打ち上げパーティー、そして2日続けて友達が慰労会をやってくれましたが、その翌日ぐらいから引きこもり状態に入ってしまったんです。人も来なくなる、テレビを見ていても、何も目に入ってこない、本を読んでも1行読んでそこから先に進めない、脱け殻ですよね。でも、それは完全燃焼したからではなかった。『ああしておけばよかったなあ』とか悔いていたんですから。『ああ、これから稽古しないんだよな』と思うと無性に寂しくなりましたね」

 しばらく続いた寺尾の憂鬱を、スッキリと解消する答えが、年の明けた2003年の初場所で出た。もちろん、寺尾が土俵に立ったわけではない。

 横綱貴乃花が引退を発表したのである。

「『終わった。これで俺の相撲人生は本当に終わった』と思いましたね。もうその時点で、自分は背広を着て歩いているし、やめたのはわかっていたんです。けど、11年間も目標にし続けてきた相手の引退で、やっと自分もやめたことを実感できたんですよ。向こうは僕のことなんか眼中になかったでしょうが、僕は貴乃花に勝ちたい一心でしたからね。執念でした」

 負けるはずのなかった相手に負けたこと。それが寺尾の執念に火をつけた。横綱になった貴乃花から金星を上げたこともあったが、それでも一番最初の黒星を帳消しにすることはできなかったのだ。自分が先に土俵を去った後も綱を張り続ける貴乃花の姿に、寺尾は自分でも気づかぬうちに、二度とありえない対戦に思いを馳せ、執念を燃やし続けていたのかもしれない。そして、執念を燃やし続ける目標がなくなった瞬間、寺尾にやっと、引き際が訪れたのである。

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 なぜそこまで貴乃花を意識していたかについては、【前編「僕は、宇宙一、国技館で負けている人間だ」 元関脇・寺尾、錣山親方はボロボロになっても土俵に立ち続けた】で読むことができる。

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