【大屋政子の壮絶人生】幼少期の悲惨体験、父親の墓前で誓った敵討ち…極度の人間不信がもたらした尋常ならざる金銭への執着

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 ミニスカート、甲高い声、朗々と歌いあげるオペラ…「うちのおとうちゃん」のキメ台詞とともに鮮烈な記憶を残す“昭和の女社長”といえば、1999年1月16日に78歳で死去した大屋政子さんだ。“派手好きでお金も大好き”というイメージの裏側には、「戦後ナンバー1の女傑」と呼ばれるほどの壮絶な生き様があった。

(前後編記事の前編・「新潮45」2005年8月号特集「昭和史七大『猛女怪女』列伝」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです)

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帝人の女帝

 JR天王寺駅から南東におよそ4キ口、市道大阪環状線沿いに建つ日蓮宗妙見山法得寺は周囲をビルに囲まれた小さ寺である。この寺の境内の隅にひっそりと佇む墓に、大屋政子と、彼女が「おとうちゃん」と呼んだ大屋晋三が眠っている。それは生前の華やかさを思えば、いささか地味とさえ感じられるほどにシンブルな墓石であった。

 かつて週刊誌で“戦後ナンバー1の女傑”と呼ばれたこともある政子が胃ガンのため78歳で亡くなったのは、平成11年1月16日のことである。その3日後に執り行われた葬儀には、各界の著名人ら約1300人が参列した。祭壇は深紅のバラとピンクのカーネーションで飾られ、会場にはオペラ歌手マリア・カラスの歌声が流れた。オペラ好きの政子が特に好んだという『マダムバタフライ』の中のアリア『ある晴れた日に』だった。

 あれから早6年余の歳月が過ぎた。今年の命日には7回忌法要が営まれ、親類縁者60人ほどが法得寺に集まった。

 無事に法要を済ませた長女の登史子(56)は感慨深げにこう語る。

「母が生きているときは、母娘でいろいろ葛藤や衝突もありました。でも、それも月日が経つにつれて薄れていき、今はもう、あの世で父と仲良うやってくれてることを願うだけです」

毀誉褒貶が激しかった生涯

 政子が、合繊業界の雄「帝人」のワンマン社長として知られた大屋晋三と結婚したのは昭和25年のこと。爾来、四半世紀もの長きにわたって社長夫人として君臨。社長の陰に夫人あり――といわれたその圧倒的な存在感から“帝人の女帝”と揶揄されたこともあった。

 その間、晋三に随行して世界各国を飛び回った。やがて“肝っ玉トップレディ”などとも呼ばれ、世界の要人と差しで話が出来る希有な日本人女性として知られるようにもなる。

 その多彩な交友録の一端を紹介すれば――エリザベス英女王、チャールズ皇太子、故ミッテラン仏大統領、デザイナーのジバンシー、はたまたロックミュージシャンのロッド・スチュアートが自宅に遊びに来たり。パリのオペラ座もヴェルサイユ宮殿も顔パスだった。さらにフランスやイタリアなど、各国から贈られた勲章は合わせて19個にもなる。

 後年は、世界的バレエコンクールを開催したり、ゴルフ場経営といった事業を手掛ける傍ら、タレントとして派手なミニスカート姿でテレビに出演し「うちのおとうちゃんがねぇ……」で一世を風靡。テレビ出演料は大女優並みともいわれた。

 バレエなどの文化活動に尽力する一方で、カネと地位に人は寄ってくると言って憚らなかった女傑の生涯は、まことに毀誉褒貶の激しいものであった。

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