「東西ドイツ統一」が欧州危機の原因なのか? 統一直前に有名国際政治学者が発していた「警告」とは

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 1990年10月の東西ドイツ統一は、冷戦終結の果実として、世界中の人々に祝福された。しかし、それから30年以上が経過した現在、ユーロ危機やブレグジット、そしてウクライナ戦争など、欧州における様々な危機の出発点として、ドイツ統一をとらえ直す動きが盛んになっている。

 じつはドイツが統一する前から、懸念を表明していた識者が少ないながら存在した。戦後の国際政治学をリードした高坂正堯氏(1934~1996年)もその一人。ドイツ統一に先立つ1990年6月の時点で、いち早くその問題点を論じている。高坂氏の「幻の名講演」を初めて書籍化した新刊『歴史としての二十世紀』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介する。

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規則正しく無秩序なドイツ人

「国民性」について語る場合、それはある種の危険をおかすことになります。なぜなら、「国民性」と言うと、あたかも人間についての性格であるかのような錯覚に陥るわけです。
 
 実際、「国民性」を扱った専門研究も、「ドイツ人は権威主義的な人格が多い。それが戦前の軍国主義と繋がりがある」と書かれた本もあります。よく調べて書かれている本であっても、方法論上の問題があるのは確かです。

 理由は簡単で、全部のドイツ人が権威主義的な性格かというと、明らかに違います。親、特に父親に確固とした力があり、その言うことを聞かなくてはいけないというように育てていくと、権威に対して従順でありながら、自分が偉くなると威張るタイプになると言うのですが、確かにドイツ人にはなんとなく多そうです。しかし全員がそうではない。おまけに、ドイツ人以外にもそういう人はいる。
 
 結局のところ、そんな人が全人口の何%いたら、国民性が権威主義的なのかわかりません。人間の性格と国全体の性格はそこが違うので、両方を同じように語るのは危ないところがあります。

 もう一つの問題は、我々が国民性と呼んでいるものは大体一つの傾向を指しています。ドイツ人なら、「規律正しい」「秩序を守る」「命令に従う」で、これは確かに嘘ではありません。
 
 第2次世界大戦にいたるヒトラー台頭の歴史、戦争中の戦争指導を見ていますと、開戦時に早くもドイツの高級将校たちは、ヒトラーでは国が負けて滅びると考えたようです。したがって、なんとしてもヒトラーは除去すべきだという意見もありましたが、曲がりなりにも国の法律に則って首相、のちに総統になったので、忠誠を誓わなければならないと、我々からは不可解なぐらい当時のドイツ軍人は悩んでいます。忠誠を誓ったところで、それをひっくり返してもいいようなものですが、それもいけないという人が多かった。だから、ドイツ人は「命令に従う」という命題はここでは事実なのです。
 
 しかし、「国民性」については逆のこともいえる。たとえば、同じドイツ人には無政府主義への傾向がある。秩序が崩れたときには、それぞれ勝手なことをして、国がバラバラになる傾向があるともいえる。一方で秩序を重んじながら、他方では無秩序への欲求があって、ときおりそれが表面に出るという時もある。いずれにせよ、「国民性」には二つの極がある点を意識しておくべきでしょう。

イタリア人のドイツ人嫌い

 にもかかわらず、「国民性」という概念は、国際政治の動きにおいては重要です。暇があったら、ぜひお読み頂きたいものに『ヨーロッパ人』という本がありまして、著者はルイジ・バルジーニというイタリア人の新聞記者です。

『ヨーロッパ人』では、イタリア人の目で、アメリカ人も含めて欧州に関係する様々な国民が取り上げられていますが、なにしろ著者はイタリア人ですから、一番、持ち上げられているのは自分たちのことです。ただし、彼がどう自国を褒めているかというと「第1次世界大戦でも1960年代でも、あの国は駄目だった、といわれてからが強いんだ。その意味で世界を驚かせる能力は、大したもんだ」というのです。確かにイタリアは、第1次世界大戦では降伏寸前にまで追い込まれてから、盛り返しました。

 今から20~30年前は、「イタリア病」という言葉まで生まれましたが、今もイギリスよりは豊かであるし、ファッションでは世界をリードしています。自動車も悪くない。「いったん悪くなってからがいい」というのは、うまい自慢の仕方だと思います。しかし、この本も、イタリアの特徴はなにかという手法で、国民性を掴んでいる。

 そして、興味深いのは、やはり彼はドイツ人が嫌いというか、評価が低いのです。「新聞記者として最初に訪れた時は、ヒトラー政権下だった。第2次世界大戦が終わってしばらくして再訪したら、あまりに雰囲気が変わっているのを見て、自分はびっくりした。そこに私が、ドイツに対する不信感を捨てきれない理由がある」と書いてある。

 それは、ドイツ人は一方向にまとまって動く、それも一目散に走っていくので、どうしようもないというイメージです。これも一種の国民性論ですが、現在ドイツの統一問題が浮上しているときに、周囲の国民が本当に心配しているのはこの点です。

 なぜなら、去年(1989年)の今頃はまだ、ドイツ統一など、ドイツ人も含めて誰も頭の中で考えていなかったわけです。ポーランドに「連帯」の政府ができたときも、11月にベルリンの壁が壊されたときもそうだったのが、12月頃から急に「統一」という議題が俎上にあがり、まもなく一気に経済的統一を果たしてしまう。
 
 その上、軍事的安全保障の統一を早めようと頑張っている。欧州経済、特に東欧の経済はどうなるのかという点を詰めずに己の目指す方向に突っ走って、やはりドイツ人は自分勝手ではないかという疑念が世界に生じていることは事実なのです。

ドイツ統一の問題点

 ソ連にとって、第2次世界大戦後の最低目標は、東ドイツを自分の友好国に確保することでした。だからこそ、何回もベルリン封鎖をやり、ベルリン危機が何回もあり、東ドイツに、全自衛隊員より多い38万人を駐留させていました。それがにわかに、ドイツが統一し、再統一ドイツはNATOに加盟すると、安全保障問題はどうなるでしょうか。昨日の味方は今日の敵、クルッと東ドイツは後ろを向いてロシアに対峙することになる。
 
 さりとて、再統一されたドイツの中立化も危なくて、周りの国はどこも嫌がります。中立というのは、かわいらしい小国が自分の安全を保障してもらう代わりに、自分は迷惑にならないという責務を背負うという弱者の契約です。なにをしてもいいという意味ではないのです。もしそうなら、どの国もやります。スイスやベルギーもそういう意味での中立国ですが、大国の中立は逆にハタ迷惑なのです。
 
 しかし、だからといって、ソ連の指導者なら、「再統一したドイツはNATOに属するのが一番いいので東ドイツはそっちに行きました、私もそれを認めました」と簡単に言えるはずがありません。だから、先日の米ソ首脳会談でも進展なしです。それは当たり前で、ゴルバチョフには説明のしようがないからです。結局のところ、世の中が激しく変わりすぎたのでしょう。

 その問題は別にして、ともかく『ヨーロッパ人』でのドイツ人の唐突さについての語り口も一種の国民性論です。この議論に適切ではない点があるのは事実ですが、それでもやはり、民族固有の、モンテスキューが言うところの「一般精神」と制度的要素、人間でいえば、その人の癖のようなものが合わさって国の強さや行動様式を決めるところが多いというのは本当で、これを各々の国民が失うことはできません。だからこそ、国際関係は難しくなります。

※本記事は、高坂正堯『歴史としての二十世紀』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

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