財界きっての論客「牛尾治朗氏」、小泉元総理のブレーンは晩年も「iPadの構造に興味津々」【2023年墓碑銘】

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 長く厳しい“コロナ禍”が明け、街がかつてのにぎわいを取り戻した2023年。侍ジャパンのWBC制覇に胸を高鳴らせつつ、世界が新たな“戦争の時代”に突入したことを実感せざるを得ない一年だった。そんな今年も、数多くの著名人がこの世を去っている。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」では、旅立った方々が歩んだ人生の悲喜こもごもを余すことなく描いてきた。その波乱に満ちた歩みを振り返ることで、故人をしのびたい。
(「週刊新潮」2023年7月6日号掲載の内容です)

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「人事を尽くして天命を待つ、ではなくて“天命を信じて人事を尽くす”ですよ」

 政治解説者の篠原文也氏は、牛尾治朗氏が口癖のように話していたことを思い出すという。任された仕事の大変さを、牛尾氏自身がかみしめていたのかもしれない。が、牛尾氏にはそれを感じさせない人望があった。

「1995年の文藝春秋2月号で、牛尾さん、セコムの飯田亮さん、京セラの稲盛和夫さん、そして秩父セメントの諸井虔さんに出席してもらい、私の司会で座談会を開きました。この時、はじめて“ニュー財界四天王”という言葉を使ったのです。牛尾さんら四人は次の財界を中心的に担う存在として嘱望されていました」

 そう篠原氏が振り返るように、政財界に広い人脈を持つ牛尾氏は変革が求められる局面では、常に引っ張り出された。

 1931年兵庫県生まれ。祖父は米相場で財を成し、父は銀行や電力会社の経営者という一族に生まれた牛尾氏。自力で会社を立ち上げたのもやはり血筋だったのかもしれない。

 旧制三高から東大法学部に進み、東京銀行(現三菱UFJ銀行)に入行する。その後、休職してカリフォルニア大学バークレー校に留学。ウシオ電機を設立したのは33歳の時だ。

改革派の論客として

 牛尾氏を何度も取材した雑誌「財界」主幹の村田博文氏によると、

「その頃の日本企業は鉄鋼や機械など重厚長大産業が中心でした。しかし、牛尾さんが手掛けたのはハロゲンランプとか映像機の光源など当時としては目新しい製品でした。今で言うベンチャービジネスです。政府主導ではなく、民間企業が中心になって社会を発展させるんだという考えも、原点はベンチャー精神にあったのでしょう」

 経営者としての辛酸も嘗(な)めている。70年代の石油ショックで利益が急減した際はリストラを進めながら会社の立て直しを断行した。一方ではJC(日本青年会議所)に参加し、大平正芳、宮澤喜一、橋本龍太郎、竹下登ら次代を担う政治家と交流しながら、改革派の論客として脚光を浴びるようになる。

 ウシオ電機を東証1部(現東証プライム)上場企業に育て上げた頃、日本の財政は行き詰まりを見せ、税収だけでは賄えなくなっていた。牛尾氏は第2次臨時行政調査会(第2次臨調)のメンバーとして国鉄改革等に参画。

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