「長生きするのがエライとは思わない」と横尾忠則が考える理由 「世の中の評価より、自分自身に貢献できているか」

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 テレビではしょっ中、認知症や不眠症の予防のために一日一万歩を提唱する番組が放送されています。僕はコロナ以前からですが、あまり歩かなくなりました。自宅からアトリエまでは自転車通勤なので、ほとんど歩きません。もともと運動のための運動は好きではないので、歩くことも運動だと思うと余計に歩きたくなくなるのです。そう考えると僕ほどの肉体に対する怠け者はあまりいないんじゃないかなと思います。

 ですが、覚悟を決めて今日からアトリエまで歩くことにしました。僕は運動はしないけれど昔から歩くのは速い方で、いつもスタスタ歩くのが自慢でもありましたが、いつ頃からか、多分80歳になった頃からかな、歩くのが大変億劫になってしまいました。だから、移動は全て自転車におまかせの生活が始まったのです。自転車生活に慣れるとこんな便利な物はないし、また少々遠方にも行けます。

 ところが今日アトリエまで歩こうとして家を出て大通りを歩き始めたら、以前のようにスタスタどころか、足が上がらない。と同時に小幅でないと前に進めなくなってしまい、これは自分ではないと思いましたね。87歳の年齢にしてはまだ髪の毛はたっぷりあるし、白髪も所々あるにしても、毛はまだ抜けていない。これは自分の外観の話です。着る物も若者とさほど変らない格好をしています。だから自分の外観は年相応の人間には見えないと思っています。だけど、昨夏、急性心筋梗塞であわや死にそこなったので、中味についてはエラソウなことは言えません。立派な老人ですが、立ち姿は動かなきゃ若く見えると自負しています。でも歩くと年相応になって年齢がバレてしまいます。

 描く絵も若い画家に負けないほど若いつもりで、ちっとも枯れていないと思っています。外観のルックスと同様、絵も若造りです。絵は無理して若造りをしているのではなく、老齢になるに従がってか、絵など、どうでもええと思うのか、批評の対象から脱落して、好き勝手に描きたいと思うようになり、自然にルール違反の絵を描きたくなっていくのです。もともと独学だからアカデミズムがどういうものかがわからず、その点、無手勝流で描くので、年相応の絵にはならないのです。まあ絵のことはちょっと横に置いておきましょう。

 さて自宅からアトリエまでは以前なら歩いて7、8分で行けたはずですが、今はその倍以上かかるのではないでしょうかね。今日はアトリエまで歩いて、1000歩ありました。一日に一万歩なら家からアトリエまで、5往復しなければなりません。とんでもない疲労で、2往復位で病気になってしまいそうです。

 今日は歩きついでに近くのコンビニへ昼の食料品の買出しに行きました。歩いても歩いてもコンビニの建物は大きくなりません。結局それが往復1500歩。朝から2500歩、夕方の帰宅の1000歩を加えても3500歩です。一万歩までほど遠い。時間ではどの位かかったのか、今日に限って腕時計を忘れてきたので計れませんでした。アトリエから家を通過して駅まで5往復すると丁度一万歩になるけれど、現在の僕のスピードでは相当かかりそうです。歩くだけで一日仕事になって、絵を描く体力は消耗してしまって、歩くだけの人生で終りそうです。

 目標一万歩を達成するのは無理だと思いますが、いつか肉体が散歩の必要性を認める時がくるかも知れないと思うとそれを目的にするべきかも知れません。ただ、僕は普段から目的を持たない生き方をしている人間ですから、恐らくこの一万歩計画は多分永遠に実現しないように思います。

 実際90歳、100歳の老人で一日に一万歩も歩くなんて人はいないはずです(いますかね)。特別の病気も患らわずに、老体という肉体的ハンディキャップを抱えながらも無理をしないで長生きされている方は非常に沢山おられるはずですが、僕は別に長生きするのがエライとは思っていません。ある程度、したいことを何んとなくやりとげたかな? というところに到達すれば、別に達成感など得なくても、それなりにまあ、ええか、と満足するのではないでしょうか。

 医療の進歩が、長寿をあおっているところがありますが、医学の進歩のために犠牲になる必要はないと思います。社会的風潮はなんとなく延命させることを目的としており、またそれの犠牲になるために同じ目的で社会的貢献を余儀なくさせられていることに気づかず、とにかく長生きすればいいという、まるでレースのように競わせていると思えるところがあります。誰が言い出したか人生百年時代。少子化時代に突入している現代社会に、困ると言っているのは政治家の戦略で、もしかしたら国民はいつの間にかこの戦略に洗脳されているような気がします。社会に貢献して世の中から評価されるよりも、自分自身にちゃんと貢献できているかどうかの方が問題ではないでしょうか。一万歩とか百歳とか、きりのいい数字を突きつけられてその気になって、数字に挑戦することが無意味なものに、だんだんくだらないものに見えてきました。

 僕も一万歩を目指すのは止めて、とりあえず家からアトリエへの往復だけは歩くことにしようと思っています。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2023年12月21日号掲載

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